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裁判官は僕だけでなく弁護士にも働かせた。
一般的に裁判官の仕事は裁判をすることだと思われがちだが、少なくとも米国では、裁判官の時間の大半は書類の処理に割かれる。裁判をして長時間拘束されるのを僕の上司は嫌っており、彼は「私は忙しい。裁判したいのであれば次の祝日しか空いてない」と言っては、原告と被告の弁護士に和解するよう促していた。
僕が仕事で泣きたくなったのは1回しかない。それは社会人になったばかりの最初の金曜日だった。
当時の僕は、ニュージャージー州裁判所の裁判官の下でロークラーク(法務書記)と呼ばれる職に就いたばかり。仕事としては、事務をこなしたり、判決の草案を書いたり、原告・被告の代理人と連絡を取ったりして、裁判官を包括的に支援していた。
上司の裁判官はワークホリックで、異常な数の訴訟を処理する人としてニュージャージー州の法曹界内では有名だった。僕が泣きたくなったのは、1週間かけてやっと処理した膨大な書類を保管室に運んだ直後、事務局から翌週処理する膨大な書類が回ってきた時である。
僕は前職の法律事務所時代、資金調達やM&Aといった金融案件を専門としていた。あまりの激務でそろそろ転職してもいいかなと考え始めていた頃、偶然にも過去の案件で一緒に仕事をしたことがある投資銀行から転職してこないかとのお誘いを受けた。その後、面接は順調に進み、内定まで貰ったのだが、そこで初めて、僕は自分が金融業界にもう懲り懲りであることを自覚した。
ファイナンシャルプランナー(FP)と転職エージェントには共通している点がたくさんある。
まず、どちらも人生の重要な事柄に関するプロという意味で、重要な存在だ。
今年の春、母方の祖父が103歳で亡くなりました。偉大な人生を生きた祖父について書くことも考えたのですが、私は「死」というものが堪らなく苦手で、「死」について考えようとすると思考停止状態に陥ってしまいます。よって、今年は祖父の「死」についてではなく、自分の「生」に対する考えについて書くことにしました。
さて、今年の春、私は職場で昇進しました。正直、少々遅かったです。
私は極めて能天気な性格です。それは仕事に対する姿勢にも言えることで、良い同僚に囲まれ、やりがいを感じていれば、私はそれ以上のことを仕事に求めてきませんでした。結果として出世欲を持たないことになったのですが、それは美徳であるとさえ自負していました。
しかし、昇進が遅れ、昇進するために何が欠けているのかを真剣に考え、やっと昇進できたことで、ひとつ悟ったことがあります。それは、意欲とチャレンジと成長は切っても切れない関係にある、ということです。
もし僕が自殺を疑われる形で死亡していたら、それは10000%の確率で殺人だと断言できる。地球が破滅するまで太陽が昇って夕日が沈むことが繰り返されるくらいに、僕の死が他殺であることは確実だ。
そんなわけだから、読者にお願いがある。僕が自殺をしたらしいという噂を聞いたら、直ちに犯人を探して欲しい。
つい最近僕に会ったばかりのAさんが、長年の付き合いから僕を知り尽くしているBさんに対して、こんな質問をしたらしい。
「ジョーさんって、いったい何をしたいんでしょうか」
どうやら、将棋だの、政局だの、飛行機事故だの、映画評論だの、二千円札だの、コンビニでバイトしてるツダくんだの、何の関係性もない話に何時間も付き合わされたAさんは、これら話題のすべてがどう生産的な人生に繋がるのか、疑問に思ったらしい。
世間知らずの僕でさえも採用してくれる企業だったから、バイトの初日は研修から始まった。
研修の講師は気さくなおばちゃんで、そんな彼女に教わった一つが、会計を終わらせる前にカゴに商品が残ってないかを確認することの重要性だ。「カゴに残った商品の代金を回収しないことによる損害がバカにならないの」と説明しながら、「我が社の業績は厳しいからね…」と補足していた彼女の言葉が今でも忘れられない。大企業でも経営の不振が現場の人に影響を及ぼすのを目の当たりにしたこの瞬間は、当時でもとても感慨深かった。
「お酒とバイトは中2から」。僕にはこんな持論がある。
「中2」とは語呂がいいから選んだ年齢だけであり、もちろん違法行為を推奨しているわけではない。この持論の趣旨は、お酒も労働もなるべく早く経験した方がいい、といった人生アドバイスである。
塾時代、僕は常に最下位であった国語試験の結果について危機感を持ったことが一度もなかった。「周囲は所詮、僕と同様に米国生活が長すぎて日本語がおかしくなってきているエセ純ジャパばかり。最下位とはいえ、上位との差は20〜30点ぐらいだろう」とたかをくくっていたのだ。
僕はからっきり国語がダメだ。
どれほどできないかは灘中学校と開成高等学校の受験に失敗したことで立証済みだが、これはなにも最近始まった話ではない。
まだ米国に住んでいた中学生時代、あまりに勉強しない僕を見かねた両親の計らいにより、僕は週2〜3回塾に通うことになった。
この塾では毎月、国語、数学、英語の学力テストが実施されたのだが、三科目すべて芳しくなかった結果の中でも、特に悲惨だったのが国語だ。100点満点中概ね13点から16点で、10数人いた同級生の中でいつも最下位。6年間、僕は一度もその特等席から浮上できなかった。
さて、私の座右の銘は「人生いろいろ」ですが、さすがの私も、映画の世界でしか見たことがないパンデミックを自ら経験することになるとは夢にも思っていませんでした。
こういう未曾有の時こそ、人生について改めて考える機会になるのだと思います。
この「上達し続けられる」ということが、趣味の持続力には不可欠だと思います。最近、私の飛行機事故の検証の趣味が冷めつつあるのは、科学オンチではこれ以上極められそうにないからです。嬉しいことに、将棋ではまだまだ限界が近いという感じがしません。
2020年8月12日の水曜日、私、ジョーは、千駄ヶ谷にある将棋会館の道場で5級に昇級いたしました。
毎年発信している自己満足の年次報告書を読んでくださっている方はご存知のとおり、これは私にとって人生の一大イベントです。
昇級までの道のりは、とにかく「長かった」の一言に尽きます。
とは言え、希望と期待と運命を背負っていく天才の人生は、「浅い、でも広い」人生の楽しさを知ってしまった僕からすると、なんとも窮屈に見える。
ベルギーの天才児が9歳で大学を卒業するらしい。今後、医者を目指すのだという。
こういった天才について読む度に思うのだ。「天才」とは幸せなのだろうか、と。
危ないのは刺激なき環境だけではない。僕は将棋で何度も油断大敵を痛感しており、それはこれからの人生において決して忘れてはならない教訓だと思っている。
将棋では時々、優位に進めていると思っていたのが、いつの間にか手の施しようがないほど劣勢になってしまっていることがある。振り返ればどの局面でどの手が悪かったのか分かるが、対局中は、危機感がないまま指していてふと気付いた頃には事は遅し、といった感じである。
どうも僕は、人生を将棋にたとえるのが好きなようだ。将棋にハマればハマるほど、将棋が人生の縮図に思えてくる。
僕の人生論は「人生いろいろ、将棋もいろいろ」だ。
この3年間、僕はある仲間と100局以上の将棋を指してきたが、その彼との将棋が同じになったことが一度もない。最初の5−6手は毎回似たり寄ったりだが、いつもどこかで新たな分岐があり、経験したことのない将棋に展開していく。
人の人生も同じではないか。同時に生まれ、同様の環境で育った双子でも、徐々に異なる人生を歩んで行く。生まれながら似ている双子でさえ違う運命を辿るのだから、世界にいる70億人の人生の多様性は計り知れない。まさに、将棋も人生もいろいろである。
先日、海外送金するために銀行に行ったら、えらい恥をかいた。
日本の法律上、海外送金をする際にはマネーロンダリング対策のため送金の理由を銀行に説明する必要がある。この度の送金は昨年の米国滞在に伴う所得税を支払うためだった。よって送金の理由は「納税資金」だったのだが、さて、手渡された用紙に書き込んでいくうちに「送金理由」の欄で手が止まってしまった。「納」、「資」そして当然「金」の字は覚えていたのだが、「ゼイ」の字の部首がどうしても頭に浮かばなかったのだ。
僕の将棋をドラクエの作戦に例えるとしたら、確実に「ガンガンいこうぜ」である。
つまり僕の将棋は攻撃一筋なのだ。
良い意味でも悪い意味でも。
最近ある医学生から、「人身事故を起こすと医者になれなくなっちゃうので、自動車運転をしないんです」というような話を聞いた。
その時は、なるほど、生命を救うべき立場になる人が他人に害を与えてはいけないな、と納得したのだが、その後これが弁護士だったらどうだろうか、と改めて考えてみた。
人間誰しも悪意がなくても過ちを犯してしまう。良いことと思ってやったことが裏目に出たり、うっかりミスが数億円の損害につながったりする。自動車運転においては、赤信号を無視してきた車に突っ込んで相手の運転手を死なせてしまったりする。
そういった過失責任がなさそうな場合でさえも日本では医者になれなくなってしまうのか定かではないが、米国弁護士について言えば、殺人を犯した者でも弁護士への道が閉ざされてしまうわけではない。
2017年は色々な面で「時間」について考えさせられた年でした。
6月と9月には、大学時代のルームメイトが立て続けに結婚しました。ルームメイト4人が揃ったのはほぼ大学時代以来のことでしたが、その頃と変わりなく彼らと接しながらつくづく感じたのは、真の友情とは時間を超越するのだな、ということです。
もっとも、「時間」の経過には抵抗できないことを今年改めて実感したのも事実です。数年前、ませた親族の子に「何とか時間が過ぎるのを遅くできないかな」と尋ねたら、「時間が過ぎるのが早いのは毎日が楽しみだからだよ」とちょっと生意気な返事が戻ってきたことがありました。彼に「今年は特に目紛るしかった」と愚痴をこぼしても、きっと、「毎日楽しくしすぎだよ」と冷ややかに返されるだけでしょう。
先週、祖母が亡くなった。享年92歳だった。
祖母は数年前に認知症を患ってから徐々に記憶が薄れ、最後には僕が誰であるのか分かっていなかったと思う。
1年前に骨折した後には、手術とリハビリを経て歩ける程度には回復したものの、精神的には急激に衰退したのが明確だった。
数ヶ月前には食事を摂らなくなり、点滴に頼るようになってからはベッドを出ることが少なくなった。
そして最後の数週間は寝てばかりだった。
そこまで祖母が弱ってしまい、終わりが近くなっているのが明らかになっても、僕は最後の最後まで「92年の人生、幸せだったね」とは言えなかった。常に、「もう少し頑張って」と思っていた。
祖母を見届けて思うのは、「人間、生きていなければ意味がない」ということだ。
魚に生まれ変わるとしたら、マンボウになりたい。僕にはそんな、ちょっと変わった思いがある。
断っておくが、これは決してマンボウになりたい、という願望ではない。あくまでも、死後、神に会い、その神にユーモアがあって、「地球に戻りたいのであれば魚として戻してあげよう」と言ってもらえた際の答えを準備しているだけだ。
僕とマンボウの初めての出会いは、小学生の時に行った鴨川シーワールドでだった。内側がビニールシートで覆われた水槽の中、下からゆっくりと浮上して視界に入ってきたこんなマンボウはとにかく衝撃的だった。
僕の人生の哲学は「人生いろいろ」の一言で簡潔に纏まる。
人生を語れる年齢か、と年配の人には叱られそうだが、そう長く生きてきた訳ではないものの、今までそれなりにそこそこの経験をしてきた。
日本で生まれ、米国で育ち、地元の公立校にもキリスト教系の私立校にも通った。大学では理数系と文系の分野をかじったし、社会人としては公務員としてスタートを切った。少なくとも一般的とは言えない経歴であろうと自負している。
様々な環境にいたことによって、生まれや育ち、学歴や職業、性格や特技が大きく異なる人々に出会ってきた。その他、人の趣味や個性も考慮すると、僕は多種多様な人に囲まれていて、それが最近「人の生き方ってこうも違うものなのか」ということを認識することにつながった。そして、そんな認識を持つようになり、毎日がたまらなく楽しくなってきた。
最近「便所メシ」という言葉を知った。これは、大勢の目の前で一人だけで食事をすることに極限な恐怖を感じる人が、便所に入って弁当をパパッと終わらせてしまう習慣を指すらしい。
現代日本のいわゆる「ボッチ」現象の延長線上にあると言えるこの「便所メシ」。これが、数年後には真っ当な社会人になっていなければならない年齢層が集まっている大学という場所で起こっているというのだから、「ボッチ」現象は極めて深刻である。
他人の目を異常なまでに気にする社会現象には自分に対して自信を持てない人があるのだろう。そしてその自信のなさは、自己主張が苦手な日本人社会に直接関連しているように思う。
今の法律事務所に勤め始めもう一年。通常なら新社員が入社する時期なのだが、不景気のせいで入社時期は無期限に延期。おかげでなんとか首切られずに今年を生き延びた我々は週末出勤や徹夜が続いている毎日である。
形式上2008年入社である僕は未だに最も後輩なのだが、9月に数人の交換弁護士が海外の法律事務所から派遣されたため、やっと僕よりも未経験な人と働くようになり、知ったかぶりできるようになった。
派遣された弁護士に日本人が二人もいる。資本市場部には日本人が僕しかいないので、自然と僕が(英語で)指導するようになっている。
僕は収集癖なので、実家の部屋は高校時代からのレポートだのプリントだのであふれかえっている。整理するのも好きなので、ある程度散らかりがひどくなると、取っておいたものをまとめるのが新たな趣味になる。今年の年明けは暇さえあれば大学とロースクール時代の物を箱に入れて整理していた。ごみといえばごみだが、何せ高い学費を払って得たノートやプリント等々なので数千円の箱に保存する価値のある、高価なごみである。
何でもとっておくので、当然のことながら塾時代のプリントや論文も残っている。僕は小5のときから塾へ通わされた。小学受験の時でさえ大した塾に通わせなかった両親が、受験とは何の縁もない米国現地校に通っている小学5年生のために塾費の出費を覚悟したということは、僕の勉強不足もだいぶ深刻だったのだろう。
今振り返ってみれば、小、中時代は全くといっていいほど勉強をせず、学校は友達に会いに行く遊び場だった。そんな毎日が週三度塾へ通うことによって改善されるわけもなく、僕の塾への態度は授業に座り、適当に問題を解き、宿題はしないというパターンだった。数学は国語より得意だったので比較的まじめにした覚えがあるが、国語の授業には何の興味も示さず、何の努力も注がなかった。