祖母が亡くなって思うこと、それは生きることへのこだわり

先週、祖母が亡くなった。享年92歳だった。

祖母は数年前に認知症を患ってから徐々に記憶が薄れ、最後には僕が誰であるのか分かっていなかったと思う。

1年前に骨折した後には、手術とリハビリを経て歩ける程度には回復したものの、精神的には急激に衰退したのが明確だった。

数ヶ月前には食事を摂らなくなり、点滴に頼るようになってからはベッドを出ることが少なくなった。

そして最後の数週間は寝てばかりだった。

そこまで祖母が弱ってしまい、終わりが近くなっているのが明らかになっても、僕は最後の最後まで「92年の人生、幸せだったね」とは言えなかった。常に、「もう少し頑張って」と思っていた。

祖母を見届けて思うのは、「人間、生きていなければ意味がない」ということだ。

これが言えるのも、若い僕にはまだ長い人生が残っており、健全な家族と友人に囲まれ、自らの健康も良好だからだろう、ということは十分理解している。仕事的、金銭的に悩みを抱えていたらそんな甘い考えは変わる筈だ、と言われれば、そうかもしれない、と素直に受け入れざるを得ない。

それでも、生き続けることにはいつも意味があると思う。

祖母は、認知症がひどくなっても意外な発言をする時があり、自分が置かれている状態を把握していることに最後までびっくりさせられた。

意識があるのかさえ定かでなかったこの数週間でも、手を握れば強く握り返してきた。

人間とは、どんなに弱くなっても人間であることに変わりはないのだ。

そして祖母がいなくなってしまった今、祖父と一緒にいて何かがポッコリと抜けているような感じになる度に、人間は居るだけで意味があるのだと思う。

それは、介護とか孤独死とか延命とか、現実的な問題で、社会的にも倫理的にも難しいことを考える以前に、人間についての事実として存在するのだと思う。

だから僕は、人生の意義を問われたら、「生きること自体が有意義」と即答する。

僕は、それほどまで、生きることに強いこだわりを感じる。

96歳になった祖父は最近、「長く生き過ぎた」とよく言うようになった。誰よりも尊敬する祖父だが、それだけは僕は間違っていると思うし、それを言われるとたまらなく悲しくなる。

家族と友人がいれば、生きていることを喜んでくれる人がいる。

さらに頭がしっかりしていれば、常に目まぐるしく変化していく世界を興味深く見ていくことができる。

たとえ家族や友人をすべて失い、身体的にも精神的にも健康を失っても、何かが残る。それが人間でいることなのだと確信している。

だから僕には自殺も安楽死もない。僕が、それらが疑われるような死に至ったら、それは他殺であるとここで断言する。

人類が滅び、自然が崩壊し、地球に何も残っていなくても、僕はゴキブリとともに最後まで生き続けるつもりである。

有意義な人生とはひたすら生きること。

それが祖母が亡くなる前、亡くなった時、そして亡くなった後に思う、ただ一つのことだ。

 
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