塾と僕と人生

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僕は収集癖なので、実家の部屋は高校時代からのレポートだのプリントだのであふれかえっている。整理するのも好きなので、ある程度散らかりがひどくなると、取っておいたものをまとめるのが新たな趣味になる。今年の年明けは暇さえあれば大学とロースクール時代の物を箱に入れて整理していた。ごみといえばごみだが、何せ高い学費を払って得たノートやプリント等々なので数千円の箱に保存する価値のある、高価なごみである。

何でもとっておくので、当然のことながら塾時代のプリントや論文も残っている。僕は小5のときから塾へ通わされた。小学受験の時でさえ大した塾に通わせなかった両親が、受験とは何の縁もない米国現地校に通っている小学5年生のために塾費の出費を覚悟したということは、僕の勉強不足もだいぶ深刻だったのだろう。

今振り返ってみれば、小、中時代は全くといっていいほど勉強をせず、学校は友達に会いに行く遊び場だった。そんな毎日が週三度塾へ通うことによって改善されるわけもなく、僕の塾への態度は授業に座り、適当に問題を解き、宿題はしないというパターンだった。数学は国語より得意だったので比較的まじめにした覚えがあるが、国語の授業には何の興味も示さず、何の努力も注がなかった。

日本(ひいては塾)で言えば中三のとき、現地校で高校へ進学した。公立の質に懸念を感じた(らしい)母は僕を私立へ転校させたのだ。一般的学問へ真剣に取り組む環境に置かれたので僕も大分勤勉になった。しかしながら、現地校での勉強姿勢の改善が塾でも反映されたとは言えず、もっぱら通う日程が増えるだけで、塾は相変わらず親の金をどぶに捨てているようなものだった。

それがどういう風の吹き回しか、高一、二あたりから、急に国語の勉強にまじめになった。何が引き金になったか未だ定かではないが、多分その時期から自分が日本人であるということを自覚し始めたことが大きいと思う。当たり前のことに気付いた、と言われればそうなのだが、何せ日本人との付き合いや日本のドラマ、一般的に日本に関して何の興味を示さない両親と10年近くニュージャージーの田舎に住んでいたのだから、僕はそこら辺にいる白人よりずっと、考え方や言動が典型的な白人っぽくなっていた。高校時代にそんな自分を拒否し始めたのは、一種の反抗期だったのだろうか。

しかし、国語に対して勤勉になったとはいえ、最も肝心な中等教育時代を損なったため、事は既に遅し、今更できることは限られていた。漢字のドリルなど小4から始めた覚えがあり(たぶんプリントが証拠としてまだ残っている)、小六の漢字を極めたころには塾をやめていた。(余談だが、高二の後、、両親がもう塾はやめなさいと言ったとき(塾全部だか、日程を減らされたのかは覚えていないが)、国語だけは続けさせてくれと頼んだのに、説明する余地もなく却下されたのをよく記憶しているのだが、母は全く覚えていなかった。今でこそ不真面目だったつけが回ってきたのだと思えるが、そのときは無性に悔しかった。)全く恐ろしい事実だが、今僕が小学生の漢字までなら大丈夫、と確信を持っていえるのは、あの時に勉強したからなのだ。

苦手な漢字の勉強をするくらいだから、嫌いではなかった論文にも僕なりにかなり励んだ。それも家で辞書を引きながら論文の宿題を書くぐらいに。今実家に保存してある塾時代の論文は、すべてその時代のものだ。大学に入って、原稿用紙のままではいつか失われてしまうかもしれないと思い、パソコンで打つ作業を一時始めた。いつしか飽きて、結局10ほどしか現在パソコンで保存されていないのだが、ついこの前、偶然それらを見つけ目を通した。ただパソコンに原稿用紙に書かれたのを移しただけでなく、自分の「振り返りコメント」なども書き込んでいたのが笑える。

さすが十年前の論文(そして7年前のコメント)なので、大して得られるものもないがびっくりしたといえば、だいぶ自分の考え方が変わったことか。当然といえば当然に、感激するほど論文の出来はよくない。小学二年生まで日本で私立へ通っていたこともあり、実はあのころの僕はどちらかというと論文は日本語で書くほうが得意で、英語の作文は小説のようなフィクショ ンのほうが向いていた。現在の僕の英語小説と日本語のミクシィの日記を読めば、いずれにせよ国語力が大したことがないのが明らかで、改めてよく弁護士なんかになれたと思う。

しかし、質や内容とは別に塾時代の論文を読んで考えさせられたことがある。それは、あの時の些細な努力が今の自分に大きく貢献したのだな、と。中学時代、僕は米国の大学を卒業し、米国で仕事に就くのが当然と思っていた。というか、それ以外の道があることすら頭に思い浮かばず、それだけ日本とは文字通りに、そして比喩的にも自分からかけ離れた存在だった。それが大学では、日本の新聞に目を通すのが日常になり、日本の政治に関して卒論を書き、日本には頻繁に帰国した。ロースクールでは、日本人向けの家庭教師や東京での勤務も経験した。いつしか、それができるようになっていた。

今の職場は、国際的法律事務所として知られている。英語以外の言語が出来る弁護士が多く、どちらかといえば英語しか出来ない人のほうが珍しい。僕の学歴ぐらいでニューヨークの一流事務所とされている所に就職できたのは、自分が国際的な人間と評価されたからとしか思えない。

こうして塾時代を振り返って思うのは、些細なことが大きなことにつながる、などという大胆な教訓よりも、人生なんて分からない、という悟りに近い。10年前には日本人の名前が読めなく、弁護士になることさえ想像できなかったのが、今では東京勤務もこなせる米法企業弁護士。10年後の僕は何処で何をしているのだろう、と考えると、怖いようでもあり、胸を躍らせるようでもある。

 
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