自己主張ができる日本社会へ

最近「便所メシ」という言葉を知った。これは、大勢の目の前で一人だけで食事をすることに極限な恐怖を感じる人が、便所に入って弁当をパパッと終わらせてしまう習慣を指すらしい。

現代日本のいわゆる「ボッチ」現象の延長線上にあると言えるこの「便所メシ」。これが、数年後には真っ当な社会人になっていなければならない年齢層が集まっている大学という場所で起こっているというのだから、「ボッチ」現象は極めて深刻である。

他人の目を異常なまでに気にする社会現象には自分に対して自信を持てない人があるのだろう。そしてその自信のなさは、自己主張が苦手な日本人社会に直接関連しているように思う。

自分の考えを持つことは重要だ。生まれや育ち、教育や職業などの「自分」全てが完全に一致する他人は世界のどこにもおらず、だからこそ正しい生き方、有意義な人生の歩み方は一人一人が自ら探し求めなければならない。一人で人生を生き抜くためには自分の芯となるものを持ち、その信念を軸に人生を歩んでいくのが必要で、そこには例えひとりぼっちになっても耐えられる、自身に対する自信が伴う。

日本人の多くには、こういう「君は君、僕は僕」と言える強さがないと感じる場合が多いが、その背景には、とにかく調和を重んじる日本の社会と教育があるのだろう。

ある女子高の校長を勤めている先生からこんな話を聞いたことがある。英語の担任も務めている彼女のところに教え子から、「次のレポートの課題を『なぜイギリス料理はまずいか』にしたいです」と相談を受けたので、彼女は「それはおやめなさい」と却下したらしい。そうしたら数日後、その生徒が再び彼女の前に現れ、「いろいろと考えた末、課題は『なぜイギリス料理はおいしくないのか』にすることにしました」と報告したそうだ。

校長先生が嘆きながら語ったこの話を聞いて僕が感じたのは、日本と米国の教育方針の違いである。僕は中学時代から既に随分と過激な考えを持っていたが、それら考えが担任に直させようとされた覚えが一切ない。否定するわけでも肯定するわけでもなく、もっぱら僕の突拍子もない話を聞き流していた先生達は、今思い返せば僕の個性と独自性を発展させることを促してくれていたのだと思う。

そういう環境で教育を受けた僕にとって日本の「出る杭は打たれる」の風習は息苦しいほかないが、話の中の校長先生の「おやめなさい」のアドバイスは、正に調和を好む日本の文化を象徴しているのだろう。そんな日本の風習にもかかわらずに自分の意志を持ち、主張を何度も貫こうとした女子高生に僕は頼もしさを感じ、校長先生に「この生徒の個性・独自性は誉め称えられるべきであり、助長してあげたらどうですか」と助言してみた。

もちろん僕は、誰も自己主張さえすればいいと言いたいのではない。周囲への配慮や我慢は社会人として不可欠である。しかし、この空気を読む能力は、多種多様な考えを持つ人からなる社会で生き延びるにはいずれは学ばなければならない。そういう我慢を学校で育てるより、そもそも我慢して抑える自己主張を持つ人を育てるのが、「便所メシ」が問題になるほど自信が欠けている日本人社会には必要ではないだろうか。

 
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