僕は長い間、人には「いい人」という要素さえあれば十分だと思っていたのだが、いろんな人に会えば会うほど、世の中そう簡単ではないと考えを改めるようになった。
たとえば、「いい人だけど頼りがない人」。そんな人は誰しも親族や同僚に一人くらい思い浮かぶのではないだろうか。こういう人たちは純粋な心の持ち主で、悪意はなく、悪いこともできないが、困った時にあまり当てにならないと言う意味では物足らない。
頼りない人は害にもならないかもしれないが、世間には「いい人」だからこそ害を与える人もいる。
僕は長い間、人には「いい人」という要素さえあれば十分だと思っていたのだが、いろんな人に会えば会うほど、世の中そう簡単ではないと考えを改めるようになった。
たとえば、「いい人だけど頼りがない人」。そんな人は誰しも親族や同僚に一人くらい思い浮かぶのではないだろうか。こういう人たちは純粋な心の持ち主で、悪意はなく、悪いこともできないが、困った時にあまり当てにならないと言う意味では物足らない。
頼りない人は害にもならないかもしれないが、世間には「いい人」だからこそ害を与える人もいる。
この一連の出来事を観察しながら、僕は「自分が彼女の立場だったら、絶対にこんなすんなりには行かなかっただろう」と考えてしまった。
僕はファミレス店舗内といった狭い空間でも迷子になりかねないので、トイレから戻ってきて自分の席だと記憶しているところに他の客が座っていたら、まずはそれが自分の席だということに自信を持てず、"本当の"自分の席を探しに店の中を行ったり来たりしたであろう。
先日、自分の性格について改めて省みるちょっとした出来事があった。
その時の僕はファミレスにいて、既に注文を終わらせ料理が出てくるのを待っている状態だった。そこに手ぶらの女性一人が現れ、右隣の席に座った。彼女は座って早々にメニューを開き、店員が水とおしぼりを持ってくるのも待たず、スープとパスタを注文した。ちなみに、僕はちょっと前にじっくりメニューを研究した後、海鮮サラダとオニオングラタンスープ、ハンバーグとライスセットのフルコースメニューを注文したばかりだった。
「ジョー、みんなに好かれる必要はないんだよ」と同級生に揶揄され、「お前は救世主になりたいんだな」と友人に弄られ、「世の中には相性の合わない人がいることを覚えておきましょう」と性格診断テストにアドバイスされる僕は、俗にいう八方美人である。
僕が生きている限り、唯一の願いは、終日、世界のすべての生き物に、どの人間よりも好かれることだ。
最近、ギャラップ社の「クリフトンストレングス」と呼ばれる性格診断テストを受けたら、上位の強みとして「社交性」が挙げられた。
社交性とは、「見知らぬ人と打ち解けて親しくなることから満足感を得る」資質で、これに長けている人は「社交的な場を盛り上げ、知らない人を自然に安心させることができる」らしい。早い話が、お調子者のムードメーカーだ。
バカでいると人生特をする。そのことを悟ったのは、いつ頃だろうか。
薄々気付き始めたのは、大学一年生の時かもしれない。
その頃から僕は、思想がまったく合わない人たちに囲まれるようになった。周囲の輩は、自らの間違った思想を、遠慮なく自信満々と終日語る、極めて面倒な米国人だった。
同級生からそんなぞんざいな扱いを受けていたので、家ではどんなひどい仕打ちを受けていたのか、想像がつくと思う。
僕が話しても、あしらわれる、迷惑がられる、無視される。そんなのは日常だった一方で、褒められる、励まされる、喜ばれる、といった反応は皆無だった。
僕の特技はどうやら話すことらしい。このことに自覚を持つようになったのは、つい最近のことである。
「話術」とは、学問やスポーツ、音楽や将棋といった才能と大きく異なる点が一つだけある。それは、この才能が周囲から評価されにくい、ということである。評価されないどころか、迷惑がられたりする。
というのも、話術がある人は基本的によく話す。そして、よく話す人は「うるさい」と邪険に扱われる運命にある。
ベルギーの天才児が9歳で大学を卒業するらしい。今後、医者を目指すのだという。
こういった天才について読む度に思うのだ。「天才」とは幸せなのだろうか、と。
僕は性格的に海外旅行に向いてない。
では、海外旅行をするとどうなるのか。
まず、飛行機から降り、訳の分からない字で埋まっている看板や広告を目にすると、この先スムーズなコミュニケーションが取れない環境が待っていることに早々と憂鬱になる。
次に僕のケチさが仇となる。