やさしいより厳しいほうが「いい人」の場合もある(前編)

僕は長い間、人には「いい人」という要素さえあれば十分だと思っていたのだが、いろんな人に会えば会うほど、世の中そう簡単ではないと考えを改めるようになった。

たとえば、「いい人だけど頼りがない人」。そんな人は誰しも親族や同僚に一人くらい思い浮かぶのではないだろうか。こういう人たちは純粋な心の持ち主で、悪意はなく、悪いこともできないが、困った時にあまり当てにならないと言う意味では物足らない。

頼りない人は害にもならないかもしれないが、世間には「いい人」だからこそ害を与える人もいる。

たとえば、僕の以前の職場にいた偉い人Aさんである。

この人は、下の人の仕事を批判することは決してなく、僕も彼と数ヶ月間一緒に仕事をしていた中で一度も厳しいことを言われたことがなかった。そんなことから「この人とは仕事がしやすいな」と思い始めていたある日、彼が僕のところにやってきて、僕が作成した書面を「私ならこうしたな」と言いながら返してきた。

パラパラめくって見ると、真っ赤である。赤字でそこらじゅう添削されていたのだ。

その瞬間、僕はハッと気付いた。この人が言う「僕ならこうした」とは「これは全然ダメだった」という意味だったのだ。つまり彼は、実は仕事に高い質を求める性格であるにもかかわらず「いい人」であることから相手が気を悪くするような言葉を口にできず、たとえ下の人に対してでも批判的なことを言えなかったのだ。

それ以降、僕は彼の評価を割り引いて捉えるようにし、「これはよかった」と言われても「これはまあまあだった」と解釈して、改善の余地を模索するようにした。そうしている限り僕は彼から継続的に仕事を振って貰えたのだが、同僚のなかにはいつしか彼と仕事をしなくなった人が多くいた。何が起こっていたのかよく観察してみたら、Aさんは人の仕事を一切批判しない分、評価しない仕事をする人に対してはある日からさっぱり仕事を頼まなくなっていたのだ。

評価されてないのに評価されていると思わせられ、ある日突然切り捨てられるとは、とても恐ろしいことである。

後編に続く)

 
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