僕の自慢は、実用性ゼロの教育を受けた証の読めない卒業証書


僕は自分の大学卒業証書が読めない。

これは何も読み書きができないまま大学を卒業してしまったからではなく、我が母校であるボストンカレッジの卒業証書がラテン語で書かれているからである。

死語で書かれている卒業証書は、ボストンカレッジのリベラルアーツ教育の非実用性をまさしく示している。

大学に入学後、僕が最初に出席した説明会では、いかにこの大学の教育が就職活動とは無縁であるかという説明が1時間に渡ってなされた。たしかに一年目に受けた必須科目は、ギリシャ哲学だのローマ古典だの、どう人生が転んでも役に立つ日は訪れないであろうと思わせる内容ばかりであった。

選択科目も大して変わらない。

当初僕が選んだ専攻は数学。ローマのシーザー帝王よりは数学の方が実用性が高いと思うかもしれないが、実用性があるはずの分野でも非実用性を徹底するのがリベラルアーツ教育なのである。

したがってボストンカレッジで学ぶ数学は、数学とは言っても応用性を無視した純粋数学。学年が上がれば上がるほと理論的な話ばかりになり、ある日僕は抽象代数学の授業で、いつの間にか足し算・掛け算どころか数字さえも出てこなくなってしまったことに気付いた。その瞬間、このまま授業の内容のみならず数学の意義も分からなくなってしまうことに恐怖を感じ、数学に見切りをつけることにした。

そして次の専攻として選んだのが政治学。この分野の授業では知識を蓄積することが一切求められず、授業中には偏見たっぷりの意見をテキトーに発言すれば評価され、試験では読まされた本について自分の解釈をもっともらしく書いておけば点数を稼げた。これは僕の性格にぴったり合っており、数学とはまた違う意味でリベラルアーツらしさが出る授業であった。

ところで僕は、専攻を政治学に切り替えた後も細々と数学の授業を取り続け、何とか数学も専攻にこぎつけている。日本の大学を卒業した人にこの話をすると、理系と文系の二重専攻はリベラルアーツらしい幅広い教育の証と思われがちだが、これは全くの誤解である。実は二重専攻ほどリベラルアーツ教育の精神に反するものはないのだ。

リベラルアーツ教育の目的は、人間性と世界観を豊かにし、教養を高めるところにある。そのため、大学に言わせると、理想な授業の選択の仕方とは、学生が4年間に渡って好奇心の赴くままに多様な分野の科目を受けることなのだそうだ。二重専攻を得るということは基本的に専攻外の授業を受ける余裕がないので、必然的に広範な分野の授業を受けるという方針に反する。

僕が親しくしていたある教授など、二重専攻どころか専攻制度自体に反対している節があった。もっともさすがの彼も、「大学としては学生に何か形になるものを残す必要があるんだよね」とつぶやいたことがあり、この時僕は、ボストンカレッジでさえも高い学費を取っている以上は実用性を無視できないんだな、とやけに感銘を受けたことが今でも忘れられない。

こうして受けたリベラルアーツ教育が僕の学歴の一番の誇りであり、僕は同じ教育を受けていない人物を「卒業証書が読める人」と呼んで見下す傾向がある。

でも何のことはない。僕自身、実用性ゼロであるはずの教育に実用性を求めた過ちを犯しているのである。

 

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