僕の才能は考えなしにもっぱら話せること

14歳でプロ棋士になった藤井聡太をみて思った。僕も何か才能はないものかと。

そして気付いたのだ。僕には考えなしにもっぱら話す能力があるではないかと。

この才能はまず、物理的に話せることから始まる。

話すというのは意外と疲れるものだ。数年前のバレンタインデーに、夕食を始めた17時から閉店の24時まで7時間ぶっ通しで話し続けたことがある。今考えてみたら店にえらい迷惑をかけたものだと猛省しているが、当時は帰りのタクシーで顎が痛くなり僕の口にも限界があることを学んだことに気を奪われていた。もっともその時は機関銃のように捲し立てたので7時間で体力(というか口力)が尽きてしまったが、限界を知った今ではペース配分をすれば12時間は余裕で喋り通せる自信がある。

次に、話せても別に話したくないという人が世の中にいるが、僕の特技は特に考えがなくても話したくなる、というところにある。

フランスの哲学者ルネ•デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言ったことで有名だが、僕の場合は「我話す、ゆえに我あり」がふさわしい。我が存在意義は話すことに始まり、話すことで終わる。

沈黙ほど僕にとって苦手なものはない。誰かと食事や散策している時、僕は一瞬でも会話が途切れて気まずい空気になることに耐えられない。天気の話でも天ぷらの話でも天の神様の話でもいいので、シーンとなってから2秒以内に僕は何かを発言する。

もっとも、僕が「気まずい」と感じる空気に誰しも同じ感じを抱いているわけではないらしく、僕の声が聞こえない沈黙を歓迎する人が周囲に少なくない。高校時代、塾で「30秒でいいから黙ってろ」とチャレンジされたことがあるが、5秒後には苦痛になり、10秒後には拷問に感じ、15秒後には我慢が効かなくなったので、16秒後にチャレンジに負けた。

とは言え、いくら話したくてもネタがなければ会話は途切れるが、話すことだけには長けてる僕が話のネタを切らすことはない。

最近はまっている将棋飛行機事故の検証以外にも、文化についてなら映画読書、政治についてなら政局や選挙制度、法律についてなら憲法や証券法、歴史についてなら徳川慶喜や米国南北戦争、教育についてならボストンカレッジやロースクール、金についてなら2000円紙幣や株投資、スポーツについてなら二言言いたい高校野球1兆円規模の米国スポーツ、米国体験についてなら恐ろしい銃社会不愉快なコールセンター、宗教についてならキリスト教や倫理、ファッションについてなら腕時計、人についてならある出来損ない弁護士、アウトドアについてならサバイバルゲーム、家族についてなら家系図等々、溢れる好奇心のおかげで、知識はなくても数だけは多いネタを十分備えており常に培っている。

こうして浅く広く語れる僕を多くの人は「話の引き出しが多い人」と評価してくれる。

ところが、僕のことを「地雷が多い人」と危険人物扱いする人もいて、それはどういうわけか付き合いが長い友人に多い。彼らには、僕のたとえばジェームズボンドシリーズ24作について3時間ずつ計72時間講演できる能力がどれほどスペシャルなものなのか理解できないのだと思う。

そういった意味では藤井聡太は恵まれている。誰しも評価しやすい才能を有しているのだから。

 

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