もし僕が自殺を疑われる形で死亡していたら、それは10000%の確率で殺人だと断言できる。地球が破滅するまで太陽が昇って夕日が沈むことが繰り返されるくらいに、僕の死が他殺であることは確実だ。
そんなわけだから、読者にお願いがある。僕が自殺をしたらしいという噂を聞いたら、直ちに犯人を探して欲しい。
もし僕が自殺を疑われる形で死亡していたら、それは10000%の確率で殺人だと断言できる。地球が破滅するまで太陽が昇って夕日が沈むことが繰り返されるくらいに、僕の死が他殺であることは確実だ。
そんなわけだから、読者にお願いがある。僕が自殺をしたらしいという噂を聞いたら、直ちに犯人を探して欲しい。
同級生からそんなぞんざいな扱いを受けていたので、家ではどんなひどい仕打ちを受けていたのか、想像がつくと思う。
僕が話しても、あしらわれる、迷惑がられる、無視される。そんなのは日常だった一方で、褒められる、励まされる、喜ばれる、といった反応は皆無だった。
僕の特技はどうやら話すことらしい。このことに自覚を持つようになったのは、つい最近のことである。
「話術」とは、学問やスポーツ、音楽や将棋といった才能と大きく異なる点が一つだけある。それは、この才能が周囲から評価されにくい、ということである。評価されないどころか、迷惑がられたりする。
というのも、話術がある人は基本的によく話す。そして、よく話す人は「うるさい」と邪険に扱われる運命にある。
一番極端だったのは、職場が変わったある昔。上司の上司の上司ぐらいに当たるチョーえらい人から、初日は苗字で呼ばれていたのに歓迎会の頃には「ジョー」と呼び捨てにされていた。あまりの馴れ馴れしさにびっくりした同僚が「前から知り合いだったんですか」と聞いてきたが、そのエライ人に初めて会ったのはたった2週間前である。
典型的な日本人の場合、こういうことにはならないはず。純ジャパを自負している僕としては、「ジョーさん」と呼ばれるのはなんとも不本意だ。
選挙とはとにかく地味な作業の積み重ねで、その一つに「証紙」と呼ばれるシールをチラシに貼るというものがある。これは、各陣営が正式に認められたポスターを同数の枚数しか配れないよう、平等性を担保するための制度である。
都知事選ともなると、「証紙」の数は3万枚にも上る。これを貼っていく機械はなく、すべてが手動だ。ひとりで捌ける枚数なんてたかが知れてるので、とにかく人海戦術に出るしかない。
この証紙貼りという作業、実に僕の性格に向いている。
このためか、僕はしょっちゅう会食で墓穴を掘る。
例えば、最近来日したあるエラーイ人を接待した時。最初に店に着いた僕はさっさと真ん中の席に陣取ったのだが、後に現れた人誰一人として、僕の隣や前に座ろうとしなかった。
既にお気付きの読者も多いと思うが、僕は「超」がつくほど自己中心的だ。
他人に興味がない。常に自分が注目の的でないとおもしろくない。
僕という人物は、実に周りにいてほしくない存在である。
それが最も顕著に表れるのが食事会だ。