「評論家」の基準~単なる「意見屋」との違い(後編)

前編から続く)

4)ニュアンスを理解できる

世の中は複雑であり、どんなことにもニュアンスがある。マイケル・ベイは爆発をバンバン起こすことくらいしか能がない監督だが、「アイランド」(2005年)のように観る価値がある映画を稀に作ることがある。「タレント議員は無能だ」とよく言われるが、参院議員として史上最多当選(8回)している山東昭子は遥か昔タレントであった。絶対的な発言しかしない人は、「評論家」として未熟である。

5)自分の偏見を自覚している

だれしもが偏見というものを持っており、偏見というものは判断を曇らせる。どれほど客観的になろうとしても、自分が好きな監督の映画は過大評価してしまい、自分が支持しない政党には厳しく当たってしまうのが人間というものである。このことに自覚がない人は、「評論家」として信頼が置けない。

6)非主流的な考えを持っている

評論家は一般の人より考察が深くなければならず、だからこそ、たまには一般的ではない非主流的な考えを持っているはずである。絶賛されたジェームズ・ボンド映画「カジノ・ロワイヤル」(2006年)があまり好きでないと言い張り、最高裁までもが求めている一票の格差の是正が憲法違反であると主張する。そんなことが「評論家」には求められる。

7)自分の言葉に責任を持つ

評論家たるものは、自分の言葉に対して責任を持つ必要がある。映画Aより映画Bの方が良かった、映画Bより映画Cの方が良かった、と言うのであれば、映画Cより映画Aの方が良かったとは言ってはならない。同様に、不祥事を起こした与党議員に対して辞任を求めるのであれば、同じ不祥事を起こした野党議員に対しても辞任を求めるべきである。整合性がない発言をする「評論家」は信用できない。

8)教育を自分の役割の一部と捉えている

評論家は、評論している分野について一般の人より詳しい分、専門家ともいえる。そして、専門家の意見には説明責任が伴う。よって、映画を評論する際には、監督の過去の作品との比較やジャンルの歴史における位置付け等、評論の対象に関する何かについて説明すべきである。同じく、自民党の派閥政治を批判するのであれば、なぜ55年体制の時代に比べて派閥の弱体化が進んでいるのかを解説すべきである。自分の意見を言うだけで満足するのは、「評論家」として傲慢だ。

これら要件をすべて満たしている「評論家」は、特にネットではほぼ見ない。

 
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