「評論家」の基準~単なる「意見屋」との違い(前編)

何も変えようとせず、何も変えられる立場にもなく、言いたい放題である「評論家」は結構無責任であるが、それでも単に意見を述べるだけの「意見屋」よりはましである。

世間には自分の意見を述べることに人生を捧げている人が少なからずいるが、そんな人たちが「評論家」として認められるべきか、それとも「意見屋」として見下されるべきかを判断するにあたって、僕は次のような基準を参考にしている。なお、すべての基準において映画と政治の観点で説明しているのは、何に関しても意見がある僕が、唯一これら分野においては「意見屋」より「評論家」に近いであろうと考えるからである。

1) 肯定的な発言がある

悪いことの批判ばかりして、良いことを評価できなくては、所詮はミーハーな意見屋である。映画をけなす評論の方が褒める評論よりずっと書きやすいのと同様に、政治家をこき下ろすことは容易い。しかし、政治家は国会議員だけで700人以上もいるのだ。評価できる政治家を一人も挙げることができないということは、政治家を十分知らないか、政治家を評価する能力がないことを意味する。無知も無能も、「評論家」としては致命的だ。

2)「なぜ」が説明できる

意見屋と評論家の一番の違いは、「なぜ」が説明できるか否かにある。良し悪しだけを語ることはだれにでもできるが、「なぜ」を説明することは意外と難しい。誰しも駄作だと信じて疑わない映画を、理論的に褒められる。「日本の政治はダメだ」と断言するのではなく、どうして日本の政治がそうなったのかを説明できる。こうしたことができてこそ、「評論家」として認められる。

3)視野が広い

どんなことにもコンテキストがある。現代の感覚では「市民ケーン」(1941年)のどこが素晴らしいの理解しかねるかもしれないが、映画の歴史を知っている評論家は、当時この映画がどれほど斬新的なテクニックを用いていたかという点で評価する。政治の世界では「国会議員の数を減らすべき」が常識になりつつあるが、日本の国会議員一人頭の有権者数はOECD諸国の中で2番目に多い(つまり国会議員が少ない)事実を鑑みると、日本は実は国会議員を増やすべきとも考えられる。一般的には語られない主張ができなくては、「評論家」にはなれない。

後編に続く)

 
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