僕は演劇にも映画にも、大衆性と芸術性を求める(後編)

前編から続く)

このように、僕は映画に対して常にエンターテイメント性を求めている。さらに、僕には「どんなジャンルにもいい映画がある」といった持論がある。思考が一切不要なアクション映画でも、馬鹿げたコメディでも、甘い恋愛物語でも、僕はいつも面白さを期待して決して映画の誘いを断ったりはしない。

しかし、だからと言って、観た映画のすべてが好きになるわけではない。というか、僕は映画の評価には厳しい方だ。「どんなジャンルにもいい映画がある」という考えの裏には、「どんなジャンルにもいい映画と悪い映画がある」という意味が含まれている。

では何が映画の良し悪しを分けるのかというと、実はそれは、僕のルームメイトが拘った芸術性なのだ。

たとえば、「ダイ・ハード」(1988)。この映画は僕の「死ぬ前に見るべき映画」リストの上位に載っており、個人的には史上最高のアクション映画だと思っている。アクション映画である以上「ダイ・ハード」には何の深みもないが、それは決して芸術性がないというわけではない。

この映画の見どころはアラン・リックマンが演じるインテリ悪役ハンス・グルーバーだ。グルーバーが頭脳的リーダーであることは彼が初登場する一連のシーンからすぐに明らかになるのだが、何一つセリフがないのに撮影と演技でその事実を伝えられるのは、芸術であることに違いない。

僕は、「ダイ・ハード」に大衆性と芸術性の双方があることを認めざるを得ないからこそ、芸術性を突き詰めた結果である「透き間」みたいな作品の評価に困ってしまう。「ダイ・ハード」にも「透き間」にも芸術的な要素があるのであれば、なぜ「ダイ・ハード」は評価に値し「透き間」は評価に値しないのか。

もしかしたら、僕は「透き間」を理解できるほど演劇を理解できていないのかもしれない。実際、僕の芸術的作品に対する許容範囲は演劇より映画の方が広いと思う。

しかし、僕は大衆の一員でありながら、映画や演劇にそこそこ精通している方である。そんな僕でも理解できない作品は、理解できなかった観客にではなく、大衆に一切振り向こうとしなかった制作側に問題があると考えてしまうのは、僕自身の傲慢なのだろうか。

 

コメントを残す

Translate »