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僕のアート才能は皆無未満(後編)

いくら努力してもこれを超える絵は描けなかったので、次に僕が向かったのは粘土のセクションである。粘度たっぷりの粘土を4分間ちぎったり固めたりしてできあがったのがこれだ。

もともとは太陽を作るつもりだったのだが、真ん中の丸と光線を5本くっつけた時点でもう少し工夫が必要だと考えて、光線を増やした。つい先ほど描画のセクションで、同じ"もの"を描いて同じ"工夫"をしたばかりだったことからしても、僕の想像力が絶望的に乏しいことがわかる。結局できあがったのは、太陽ともヒトデとも言えるようで言えない、極めて不気味な品物だ。

僕のアート才能は皆無未満(前編)

将棋、スポーツ、そして法律。僕に才能がないものをリスト化していったらきりがないが、その中でも筆頭にくるのが"アート"である。

そんな僕なのに、何を気が狂ったのか、友人の家族と共に「築地クリップ」というところに行くことになった。「子供がクリエティブに遊べる」ことをテーマとしているクリップですることは、絵の具で描いたり、粘土で作ったり、木のブロックで組み上げたりと、僕にとってこれよりの場違いな場所はない。

恥をかくことを覚悟しながらビクビク店に入ったら、誰の目にも入るところにこんな看板があった。

僕は演劇にも映画にも、大衆性と芸術性を求める(後編)

このように、僕は映画に対して常にエンターテイメント性を求めている。さらに、僕には「どんなジャンルにもいい映画がある」といった持論がある。思考が一切不要なアクション映画でも、馬鹿げたコメディでも、甘い恋愛物語でも、僕はいつも面白さを期待して決して映画の誘いを断ったりはしない。

しかし、だからと言って、観た映画のすべてが好きになるわけではない。というか、僕は映画の評価には厳しい方だ。「どんなジャンルにもいい映画がある」という考えの裏には、「どんなジャンルにもいい映画と悪い映画がある」という意味が含まれている。

では何が映画の良し悪しを分けるのかというと、実はそれは、僕のルームメイトが拘った芸術性なのだ。

僕は演劇にも映画にも、大衆性と芸術性を求める(前編)

僕は最近、小劇場というマニアックなジャンルの演劇にはまっている。その世界にどっぷり浸かっている知人の影響である。

先日その知人と一緒に芸劇サファリ・Pによる「第8回公演『透き間』」と呼ばれる演劇を鑑賞しにいった。1時間半に渡って俳優が走り、泣き、踊るのを観た後の僕の感想は、「?」でしかない。何しろ、最初から最後まで、一体何が起こっているのかさっぱり理解できなかったのだ。

こういうことを体験する度に、僕は「芸術」のあるべき姿について考えてしまう。

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