僕は演劇にも映画にも、大衆性と芸術性を求める(前編)

僕は最近、小劇場というマニアックなジャンルの演劇にはまっている。その世界にどっぷり浸かっている知人の影響である。

先日その知人と一緒に芸劇サファリ・Pによる「第8回公演『透き間』」と呼ばれる演劇を鑑賞しにいった。1時間半に渡って俳優が走り、泣き、踊るのを観た後の僕の感想は、「?」でしかない。何しろ、最初から最後まで、一体何が起こっているのかさっぱり理解できなかったのだ。

こういうことを体験する度に、僕は「芸術」のあるべき姿について考えてしまう。

僕は演劇に関して大して詳しくないが、映画に関しては(数百本程度は見たことあるので)そこそこ分かっているつもりである。そんな僕が映画に関して断言できるのは、「映画は娯楽」ということだ。

映画は一般の人にとって楽しいものでなくてはならない。「別に大衆に分かってもらえなくてもいい、楽しんでもらわなくてもいい」などといった姿勢で製作される映画など、たまったものではない。そんな映画を他人の金で製作し、金を取って他人に観せるなど、製作者の傲慢だ。

だから僕は、アート映画というコンセプトに対して極めて否定的だ。そもそも一般人に受け入れてもらうことを目標としていない時点で、アート映画は「娯楽」という映画の本質を見失っている。

「市民ケーン」(1941年)と呼ばれる映画を僕は大学時代の美術・芸術好きのルームメイトに紹介してもらったが、その時の彼は、この傑作がいかに斬新的で映画史の発展に大きな影響を与えたのかを熱論していた。しかし、僕にとって映画の歴史などはどうでもよく、単にこの映画がどれほど面白いのかにしか関心がなかった。(その基準でも「市民ケーン」は見るべき映画だ)

後編に続く)

 

コメントを残す

Translate »