振り返って情けない、僕の教育

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最近米国の実家に置いてあった私物を整理していたら、中学生時代以降のノートやプリント、試験の答案用紙などが出てきた。懐かしいと思い、目を通しながら過去の自分の教育を振り返ると、なんとも複雑な心境になった。

見つけたもので最も古かったのは、中学生の時、塾の数学の授業で取っていたノート。適当にめくったページには数字が縦と横に並んでいた。何らかの計算だろうとは思ったが、引き算なのか割り算なのかもよく分からなかった。大して難しくない筈の中学レベルの数学さえ理解できなくなってしまったことにショックは受けたが、最近職場で「8引く5は4だからね」と自信満々に小学一年生レベルの算数を間違えて唖然とした目で見られたばかりだったので、二次関数の因数分解(であることをいずれ思い出した)の計算が見分けられないのは、実は今更びっくりするほどの事でもない。

中学レベルの数学ならまだ数字しかノートに書かれていないので、がんばれば理解できる。次に出てきたノートには、数字ではなく、かと言って文字でもない、逆さまのAのような記号がxやらyやらに囲まれて書かれていた。この投稿を書くにあたり「逆さまのA」をインターネットで検索したら、∀が全称記号というものであることが判明した。昔はこの記号の意味を知っていたのだからと思い、ウィキペディアで「全称記号」を引き、(英文の)記事を頑張って読んだが、「そういえばなんかこれ重要な記号だったな〜」ということぐらいしか頭に思い浮かばなかった。仕方なく、あの頃学んだことを何一つ覚えていない恥を隠すため、高校生以前の勉強関連の物を全部処分した。

今の数学力では到底信じてもらえないが、米国で地元の私立高校に通っていた頃の得意な科目は数学だった。米国の数学レベルの低さと僕が日本人の塾へ通っていたことを考えると、これは大して自慢できることでもないが、中途半端なバイリンガルの僕が無事大学へ進学できたのは、数学の点数が高校時代の全般的な成績をつり上げていた他ない。

米国の凄いのは、あんなに高校までの数学教育がひどい環境で、数学の天才が誕生すること。僕は高校時代に通用した成功の秘訣を大学でも試そうと思い、数学専攻コースをたどった。当初は順調だったが、3年生の1学期あたりから雲行きが怪しくなった。なにせ、数学の授業を受けているのに数字が出てくる頻度が徐々に減って来るのだ。これはボストンカレッジリベラルアーツを強調する教育方針だった為、応用数学ではなく純粋数学を教えていたからなのだが、足し算さえ使えなくなった代数学あたりで周りの生徒についていけなくなった。その頃二進も三進もいかなくなった証拠が、中間試験で40点という情けない形で出てきた。

しかし、人生とは甘く出来ているもので、ちょうど僕が数学問題の解答と縁が無くなり始めた頃、解答をそもそも要求していない社会科学の分野で僕は軌道に乗り始めていた。特に政治学においては、ある課題に関する大して深くない考えを、授業中にはあたかも詳細に分析しているように大きな声で頻繁に熱弁し、試験日には答案用紙に長々と読めない筆跡で、思いついた事を何でもいいからとにかく書くコツがつかめてきていた。

このコツがつかめるまで結構かかった証拠も山ほど発見。2年生の時に受けた二学期にわたるローマ・ギリシャ古典のゼミ。二学期目の後半にさしかかった頃に提出したレポートには、下から数えた方が早いB−の評価と共に「一学期目の最初のレポートが一番よかった」と、1年間、僕は成長するどころか後退していることを示唆するコメントが付随していた。

これは訳の分からない古典についての授業だったから評価が悪かったと言うわけでもなく、得意の分野である筈の日本政治の授業の期末レポートには、「このレポートの脚注がとても興味深かった」旨のコメントが残されていた。5ページも割いた本文の内容より、たった3行の脚注の内容の方が価値があったようだ。

よくこんなで大学を卒業でき、大学院まで進み、司法試験も受かったと思うが、米国だから、そして知識を要求されない分野を選んだからこそ可能だったのだろう。

と言うのも、ニュージャージー州の司法試験は6科目について1問ずつの6問と決まっているが、僕は試験の当日、6問目が唯一残された課題である契約についての問題だと分かっていたのにもかかわらず、どう契約が問題に関連しているのかがさっぱり分からなかった。仕方なく答案用紙には適当なことを書いた僕は、今はニュージャージ州の法曹資格を持っている。

数年前、自分の学歴に関する似たような投稿を英語で書きました。英語版は小学校時代まで遡ります。比べてみて下さい。

 
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