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弁護士で溢れかえってる米国では、スポーツ業界にまで弁護士が浸透している(後編)

他方、日本の感覚だとなかなか理解しにくいのが、スポーツ業界にいる弁護士資格保有者だろう。

米国では、スポーツ選手の代理人、すなわちスポーツエージェントが弁護士であることが多い。これは一見意外に思えるかもしれないが、代理人の重要な役割は球団との交渉であり、契約周りを法律の専門家が担うのは極めて自然なことである。

弁護士で溢れかえってる米国では、スポーツ業界にまで弁護士が浸透している(前編)

米国では弁護士になりやすい。通常思われているよりずっと。

よって、米国では弁護士資格を持っている人がべらぼうに多い。

どれくらい多いかというと、2023年だけでも、8,000人近くがニューヨーク州の司法試験に、5,000人以上がカリフォルニア州の司法試験に合格している。つまり、たった1年で、13,000人以上の弁護士がたった2つの州から誕生しているのである。日本には合計45,000人しか弁護士がおらず、司法書士と行政書士を加えても国内で法律業務に携わっているのは10万人超なので、日本の感覚からすると、毎年数万人もの弁護士が誕生する米国は極めて異様だろう。

「評論家」の基準~単なる「意見屋」との違い(後編)

4)ニュアンスを理解できる

世の中は複雑であり、どんなことにもニュアンスがある。マイケル・ベイは爆発をバンバン起こすことくらいしか能がない監督だが、「アイランド」(2005年)のように観る価値がある映画を稀に作ることがある。「タレント議員は無能だ」とよく言われるが、参院議員として史上最多当選(8回)している山東昭子は遥か昔タレントであった。絶対的な発言しかしない人は、「評論家」として未熟である。

「評論家」の基準~単なる「意見屋」との違い(前編)

何も変えようとせず、何も変えられる立場にもなく、言いたい放題である「評論家」は結構無責任であるが、それでも単に意見を述べるだけの「意見屋」よりはましである。

世間には自分の意見を述べることに人生を捧げている人が少なからずいるが、そんな人たちが「評論家」として認められるべきか、それとも「意見屋」として見下されるべきかを判断するにあたって、僕は次のような基準を参考にしている。なお、すべての基準において映画と政治の評論の観点で説明しているが、それは僕自身がその二つの分野について詳しく、最も自分が「評論家」に近いであろうと考えるからである。

低い投票率も金も無能な政治家も、「政治」にはつきもの(後編)

僕は政治と政策は切り離して考えるべきものだと思っている。日本は「多種多様な1億人」から構成されており、「政策」もその人数分だけ存在する。たった700人の国会議員だけを考えても、それぞれが自分の政策に拘泥したら、国会はカオス状態に陥ってしまう。政策に無頓着な人がいて、そういう人が政策に拘りがある人たちをまとめ上げているからこそ、国が麻痺しないで運営されていけるのだ。
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