時には一般常識からかけ離れる、犯罪者を代理する(米国)弁護士の倫理観(前編)

米国では弁護士は特に反感を買う職業だが、その理由の一つとしてよく挙げられるのが、「弁護士は凶悪犯罪者でも弁護する」というものだ。

犯罪事件における弁護士の倫理観とは、実は複雑だ。

「殺人者にも人権がある」とよく言われる。これは先進国の法的理論としては正しいだろうが、被害者とその家族のことを考えたら、たとえ弁護士であってもそう簡単には割り切れない。過失殺人ならましても、計画的殺人において被害者の権利をそっちのけに加害者の権利の云々を語ることは、非常識にさえ思える。

しかし、世の中、加害者のことだけを考えれば良いほど単純ではない。

僕の最初の上司はとても尊敬できる人格者であった。そんな彼の話で今でも忘れられないのは、「警察は嘘をつく。単に嘘をつくだけでなく、しょっちゅう嘘をつく」と言っていたことだ。

確かに、言われてみれば、逮捕する警察も起訴する検察も人間である。警察には犯人を検挙するプレッシャーがあり、検察は被告人を有罪にするプレッシャーがある。警察と検察を無条件に信じる理由などなく、嘘つく動機も十分にある。

警察と検察が信用ならないという前提に立てば、どんな凶悪な犯罪に問われている被告人でも、弁護士がつくのは妥当と考えられる。被告人だからと言って、警察・検察のやりたい放題を許していいということにはならない。

そして、被告人に弁護人がつくことを認めるのであれば、弁護人と依頼人の間で交わされ情報について機密性が維持されることは極めて重要になってくる。

それは、弁護人が依頼人に適切な法的アドバイスを提供するには、弁護人がすべての事実関係を把握していることが不可欠だからだ。依頼人からすると、話したことの機密性が保証されていなければ、当然のことながら、都合の悪い話は伝えない。

後編に続く)

 

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