日本の教育に欠けているのは、議論をする訓練(前編)

昨年、僕は米国の中学校で米国憲法を教えるというボランティア活動に参加した。

教えたクラスは30人くらいの中学一年生。授業の内容は表現の自由についてだったが、ふとしたことで、投票年齢を18歳から引下げるべきかという議論が勃発した。

その議論はこんな感じで進んだ。

引下げるべきと主張する生徒達が「いまの政治が決めていくことについて責任を負うのは我々の世代である」と発言すると、引下げに反対する生徒達は「我々の年齢では、政治についてまだ知識も経験も不足している」と反論。すると、引下げ推進派は「中学生にもなれば、社会のことが十分理解できている」と巻き返し、それに対して反対派は、「我々の歳では、まだ両親の影響が強すぎて独自の判断ができるとはいえない」と反撃に出る。

なんの準備もなしに、ひょっとした拍子に出た課題について、賛成派と反対派が自然に生まれて活発的な議論が繰り広げられるのを観察しながら、僕はある人から数ヶ月前に聞かれた「日本の教育に欠けているのはなんだと思いますか」という質問を思い出した。

それに対する回答こそ、この日に僕が目撃した、子供達が自分で考えて、自分で意見を述べる能力ではないだろうか。

米国の学校では、小学校から大学院まで、議論が盛んに行われる。これは米国人の国民性として片付けられるものではなく、教育の役割も大きい。

米国には議論を常によしとする雰囲気がある。僕がボランティアとして教えた授業では、投票年齢を下げるか否かという議論は当初予定されていた学習内容には含まれていなかった。にもかかわらず、議論が一旦始まると、担任の先生はそれを止めるどころか促した。

そして先生は、議論にあまり参加しようとしなかった。主張と反論が繰り返される中、彼女の役割は、主に挙手している生徒を指名するだけ。他にしたことは、考えをうまく表現できない生徒を時々フォローするくらい。

後編に続く)

 
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