世界最古の米国憲法から日本が学べること(後編)

前編から続く)

さらに、日本における憲法改正の議論が活発化する中、憲法とそれを解釈する裁判所から何を期待すべきか、という点についても米国から学べる。 

憲法の役割に関して弁護士や憲法学者に聞けば、多くは国家権力を抑制し少数の権利を守ること、と答えるであろう。そして、その保護を実際に執行していくのは最終的には裁判所であるとも。

しかし、裁判所が「正しい」判断をするといった保証はない。時には暗い米国の憲法史がそれを示している。連邦最高裁は歴史上数々の悪名高き判決を下しており、その一つは南北戦争という内紛勃発のきっかけになり、もう一つは労働者保護の法律を無効にしている。

これら間違った判決は民意に真っ向に対抗するものであった。最高裁のエリート判事数名が国民1億人の絶対多数の声を「是正」することが民主主義の国において相応しいのかは、200年たった今でも絶えない議論である。

さらには、過去の米国国会や大統領は最高裁の判決を度々無視してきた。その都度、軍も予算権限も持たない司法府は、 民意の支持という強い後ろ盾をもつ立法府・行政府に対して無力であった。

こういった事態から、日本も決して無縁ではない。小泉純一郎が首相だった時、裁判所が小泉首相による靖国神社参拝を違憲と判断した際、小泉は公然として参拝を続けると言い放った。この対決が、司法府と行政府に求められる・期待される役割について議論する絶好の契機だったのにもかかわらず、大した論争もなく過ぎ去ってしまったのは、なんとも残念なことだった。 

僕は日本人に、日本憲法について深く考察してもらうために、米国憲法についていろいろ学んで欲しいと思う。

今年の1月から4ヶ月間だけ、僕は大学院で米国憲法の教鞭を執る機会があった。その授業が少しでも生徒にとって「憲法」という、とてつもなく深く、しかしまだまだ日本では本格的な議論がなされてない課題について考えるきっかけになったことを願う。

 

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