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世界最古の米国憲法から日本が学べること(後編)

さらに、日本における憲法改正の議論が活発化する中、憲法とそれを解釈する裁判所から何を期待すべきか、という点についても米国から学べる。 

憲法の役割に関して弁護士や憲法学者に聞けば、多くは国家権力を抑制し少数の権利を守ること、と答えるであろう。そして、その保護を実際に執行していくのは最終的には裁判所であるとも。

しかし、裁判所が「正しい」判断をするといった保証はない。時には暗い米国の憲法史がそれを示している。連邦最高裁は歴史上数々の悪名高き判決を下しており、その一つは南北戦争という内紛勃発のきっかけになり、もう一つは労働者保護の法律を無効にしている。

世界最古の米国憲法から日本が学べること(前編)

僕が米国憲法について語るとき、必ず最初に指摘するのが米国憲法の古さである。1788年に発効した米国憲法は、成文化された憲法としては世界で最も古い。

歴史の浅いアメリカなのにそんなはずはない、と考える人は多い。しかし、1788年の世界を振り返っていただきたい。その頃の日本は江戸幕府第11代将軍徳川家斉の時代。欧州は君主制。テレビどころか電気もない時代はだいぶ昔である。

たった70年の憲法史しかない日本が、230年もの歴史を誇る米国から学べることは少なくない。

2018年は「形になる成果」に拘った年でした

昨年はいくらあっても足らない「時間」についてばかり考えていたせいか、2018年はその限られた時間を最大限に活かして「形になる成果」をあげることが目標となりました。

私は昔から教師という職業に憧れており、ロースクール時代に主に米国憲法を勉強したことから、きっかけがあれば憲法を教えたい、と従来から考えていました。しかし、私の今までのキャリアは憲法とは全く無縁のもの。ロースクールで、それも日本にいて、米国憲法の教鞭を取るなどそう容易くいかないと思っていました。

教師にあらずんば「先生」にあらず

「先生」という敬称の使い方についてふと疑問に思ったことはないだろうか。誰も彼もが「先生」と呼ばれているこのご時世、一体「先生」と「さん」の境界がどこにあるのか、ということを。

僕は「先生」の使い方は二種類あると思っている。

ひとつ目が「教える人」に対して使う場合だ。

いじめられたら、強くなれ。強くなれなかったら、逃げ出せ

いじめによる中学生・高校生の自殺ほど悲劇的で深刻な社会問題はないと思う。

もっとも、社会的に見ればいじめの問題は深刻であれども、個別的に見ればすでに起こっているいじめをやめさせる有効的で極めて単純な解決策がある。過激的だが、それはいじめている者をもっと強い者がいじめることだ。いくらきれいごとを並べても、加害者がいじめを起こすのは、結局は被害者の辛さが分からないからだ。他人への共感や思いやり等の情緒的発達が不十分な子供たちに「いじめられる身にもなってみなさい」と説教しても大した効果は期待できず、子供にいじめられる身を分からせるためには、被害者の体験を実際に経験させるしかない。

もちろん、教育上、いじめを起こしている子供を大人がいじめることなどできるはずもなく、だからこそいじめ問題には簡単な解決がない。

加害者に対する有効的な対策が難しいのであれば、被害者を少なくするしかない。

そのための提案が僕には二つある。
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