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ところで、僕には小学・中学まで一緒だったある幼馴染の友達がいる。当時の彼は、塾という下駄を履かせていた僕の影に隠れてしまっていたが、今振り返ってみると、彼こそが我が学年での本当の「数学の天才」だったのだと思う。
というのも、彼は工科大学を卒業し、大学院まで進学し、今は大学で数学を教えている。僕と違って、正真正銘の数学者である。
僕は大学で数学の専攻だった。
朝日新聞のこの記事に出てくる問題をみて、僕はそのことを改めて思い出した。
14歳でプロ棋士になった藤井聡太をみて思った。僕も何か才能はないものかと。
そして気付いたのだ。僕には考えなしにもっぱら話す能力があるではないかと。
この才能はまず、物理的に話せることから始まる。
話すというのは意外と疲れるものだ。数年前のバレンタインデーに、夕食を始めた17時から閉店の24時まで7時間ぶっ通しで話し続けたことがある。今考えてみたら店にえらい迷惑をかけたものだと猛省しているが、当時は帰りのタクシーで顎が痛くなり僕の口にも限界があることを学んだことに気を奪われていた。もっともその時は機関銃のように捲し立てたので7時間で体力(というか口力)が尽きてしまったが、限界を知った今ではペース配分をすれば12時間は余裕で喋り通せる自信がある。
最近米国の実家に置いてあった私物を整理していたら、中学生時代以降のノートやプリント、試験の答案用紙などが出てきた。懐かしいと思い、目を通しながら過去の自分の教育を振り返ると、なんとも複雑な心境になった。
見つけたもので最も古かったのは、中学生の時、塾の数学の授業で取っていたノート。適当にめくったページには数字が縦と横に並んでいた。何らかの計算だろうとは思ったが、引き算なのか割り算なのかもよく分からなかった。大して難しくない筈の中学レベルの数学さえ理解できなくなってしまったことにショックは受けたが、最近職場で「8引く5は4だからね」と自信満々に小学一年生レベルの算数を間違えて唖然とした目で見られたばかりだったので、二次関数の因数分解(であることをいずれ思い出した)の計算が見分けられないのは、実は今更びっくりするほどの事でもない。
最近漢字の勉強をしようかと真面目に考えるようになった。
発端は後輩の発言。ある日僕がカレンダーに書いてあった「挑戦」という言葉を、「モモノタタカイ」、すなわち「モモタロウ」と読んで以来僕の国語力に疑念を抱き始めたらしい彼は、しばしば僕の漢字の抜き打ちテストをするようになった。この前も「割愛」の読み方を聞かれたので、素直に「ワリアイ」と読んだら、「やっぱり」と諦めの表情で納得されてしまった。「普通の小6だったらそう読むでしょう」と言い訳をしたら、「ジョーさんは社会人になったんだから.....」と、もう少し漢字のレベルを上げるよう促された。
アメリカ人の無知を説明するのによく使われるのが、国民の3分の1が非標の世界地図で中国を特定することができない、という恐ろしい世論調査。中学でこれを聞いたとき、「この国の人間はどこまで阿呆なのか」と思ったのをよく覚えているが、僕も実は余り他人のことは言えない。
同じく中学ごろだっただろうか。塾で無標の日本地図に正しく都道府県の名を記入するミニテストがあり、答えられたのは北海道と青森だけであった。
そもそも、地理テストというのは二つの面で難しい。
僕は収集癖なので、実家の部屋は高校時代からのレポートだのプリントだのであふれかえっている。整理するのも好きなので、ある程度散らかりがひどくなると、取っておいたものをまとめるのが新たな趣味になる。今年の年明けは暇さえあれば大学とロースクール時代の物を箱に入れて整理していた。ごみといえばごみだが、何せ高い学費を払って得たノートやプリント等々なので数千円の箱に保存する価値のある、高価なごみである。
何でもとっておくので、当然のことながら塾時代のプリントや論文も残っている。僕は小5のときから塾へ通わされた。小学受験の時でさえ大した塾に通わせなかった両親が、受験とは何の縁もない米国現地校に通っている小学5年生のために塾費の出費を覚悟したということは、僕の勉強不足もだいぶ深刻だったのだろう。
今振り返ってみれば、小、中時代は全くといっていいほど勉強をせず、学校は友達に会いに行く遊び場だった。そんな毎日が週三度塾へ通うことによって改善されるわけもなく、僕の塾への態度は授業に座り、適当に問題を解き、宿題はしないというパターンだった。数学は国語より得意だったので比較的まじめにした覚えがあるが、国語の授業には何の興味も示さず、何の努力も注がなかった。