日本の教育に欠けているのは、議論をする訓練(後編)

前編から続く)

さらに印象に残ったのが、議論のレベルの高さだ。投票年齢を14歳まで引下げることにはメリットもデメリットもある。大人が議論しても「正しい答え」は出てこない。あの日にあの教室で出てきた争点は、まさに大人の議論でも出てくるものである。ここまで高度な議論が行えるのは、日頃の社会勉強があるからこそだ。

ここでの「社会勉強」とは、教科書を読んで覚える「知識」のことではない。民主主義とはどういったものなのか、民主主義国家における国民の役割と義務は何なのか、今の自分はどう国の行方に携わっていくべきなのか。そういったことを考える訓練をする教育を指している。

そして、米国では、この教育が徹底している。

いい例が、自分の考えを書き留めた手紙を自分の選挙区から選出された下院議員に送る、という中学校の社会の授業だ。その手紙を受け取った下院議員は、一般の有権者に対してするように、(必ずしも賛成するわけではない)自分の意見を綴った返事を返す。小さい頃からこうして政治と接触することが「民主主義」のあり方を学ぶきっかけとなり、政治を身近にする貴重な体験となる。

日本の人で、ましてや子供が、国会議員に手紙を書いたという話を僕は聞いたことがない。これは習慣の問題ではなく、教育の問題だ。中学・高校時代から政治に触れてこなくして、大人になってからどう政治に携われるのか。

教科書から学ぶ知識も重要である。無知では議論はできない。しかし、自分で考え抜き、自己の意見を持ち、それを表現する能力がなければ、知識に何の意味があるのだろう。

日本の教育に欠けているのは、知識を自ら活かせる能力を育てることだと思う。

 
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