いじめられたら、強くなれ。強くなれなかったら、逃げ出せ
いじめによる中学生・高校生の自殺ほど悲劇的で深刻な社会問題はないと思う。
もっとも、社会的に見ればいじめの問題は深刻であれども、個別的に見ればすでに起こっているいじめをやめさせる有効的で極めて単純な解決策がある。過激的だが、それはいじめている者をもっと強い者がいじめることだ。いくらきれいごとを並べても、加害者がいじめを起こすのは、結局は被害者の辛さが分からないからだ。他人への共感や思いやり等の情緒的発達が不十分な子供たちに「いじめられる身にもなってみなさい」と説教しても大した効果は期待できず、子供にいじめられる身を分からせるためには、被害者の体験を実際に経験させるしかない。
もちろん、教育上、いじめを起こしている子供を大人がいじめることなどできるはずもなく、だからこそいじめ問題には簡単な解決がない。
加害者に対する有効的な対策が難しいのであれば、被害者を少なくするしかない。
そのための提案が僕には二つある。
一つ目は、まずは子供に「強く」なってもらうこと。
いじめられている子供に「強くなれ」というのは過酷だと思われるだろう。確かにそれにも一理ある。
しかしどのようないじめにも共通しているのは、「強い者」が「弱い者」をいじめること。これは何も学校でのいじめに限られていることではなく、大人の世界であっても、いじめを起こすのは権力を盾にした「強い者」だ。
強くなればいじめられない。そして(社会人になって気付いたことだが)、世の中、強くないと生き延びていけない。だからこそ、子供にはだれにも強くなることを目指してほしい。
子供、特に男子にとって、最も分かりやすい強さとはやはり体力だろう。自分より強い者に立ち向かう強さは称えられるべきだと思う。僕はいじめられている子供が反撃に出ている場面に出くわしたら、叱るどころか加担しかねない。自分の子供にはいじめられたら反撃するのは許容行為であることを教えるつもりだし、反撃した相手の親が苦情を言いに来たら、僕はその親を殴る。
でも、僕が言う「強さ」とは力のことだけではない。むしろ強調したいのは精神的な強さだ。精神的な強さとはすなわち、「自信」だ。
人間だれにも特技がある。得意なことを見つけられれば、そしてそれに冒頭できれば、それが上達し、それが自信につながる。自信さえつけば、自分の軸となるものを持ち、色々とつらいことがあっても自分を見失わず、自分の命に意義が見いだせ、自ら命を絶つというような事態には陥らないと確信している。
もちろん、自信につながる「それ」が何であるかは、子供一人一人異なり、スポーツや勉強等の分かりやすい形の才能でなければ、なかなか見つけにくいだろう。だからこそ、大人が子供に最もしなければいけないことは、子供が興味を示したことを全面的に助長することだと思う。「勉強しなさい」とばかり言うのではなく、学問以外の才能を持っている子供がその才能を見つけられるように手助けするのは、親としての義務だけでなく、社会的に重要ないじめ対策にもなると思っている。
大人でさえも得意の「それ」を見つけにくいのだから、「それ」が見つけられる子供は稀だろう。「強くなれ」と言われても、体力的にも精神的にも「強く」はそう簡単にはなれない。
では、強くなれない場合はどうすれば良いのか。
逃げればいいのである。
自殺は逃げ道を失った、絶望的な状態に置かれた子がすること。よって自殺を回避するためには、常に逃げ道があることを認識させることだ。
「逃げ道」とは、「学校に行かなくてもいいよ」、と保護者や教師が不登校に理解を示すとかのレベルではない。もっと根本的な、現在の生活から逃げ出し、環境を変え、0から再スタートする、という脱出だ。
当然これは子供の意思でできることではない。子供の環境は常に親が、大人の事情で決める。でも、本当に子供をいじめから守ろう・救おうと思うのであれば、どの親も子供のためになら、転職をして、現在の生活を捨て、縁もゆかりもない土地に引っ越す覚悟を常に持つべきだと思う。
そうすれば、いじめがあるたびに相談にはのれなくても、子供にはいじめられた際に言い聞かせられる。
「強くなれ。でも出来る限り頑張っても強くなれなかったら、一緒に逃げよう」、と。