救えない人、救われたくない人
数年前、高校時代の同級生に、「ジョー、お前はみんなの救世主になりたいんだな」と言われた。お世辞でも、嫌みでもなく、ちょっと皮肉的な口調だったが、思うままの感想を述べたのだろう。
確かに僕は人を手伝うのが好きだ。助けられたくない人にとってはありがた迷惑だと思われるかもしれないが、迷惑かけない事自体が助けになるので、そういう人は放っておく。
最近少し成長したな、感じるようになったのは、世の中には救えない人と救われたいと助けを求めているのにもかかわらず救われたくない人が存在するのに気付き、そういう人を放っておくのを学んだ事。
前者は仕事場の後輩で意外と多い。僕の勤務先はある程度の法律事務所なので、ハーバードやケンブリッジなど学歴だけはやけに立派な新社員が結構いる。にもかかわらず全く使い物にならない者が目立つ。僕は人に物事を教えたり説明するのは決して嫌いではなく、気長く後輩を指導するほう。でも僕だって忙しい身だ。何回説明しても仕事が飲み込めないのなら、自らさっさ仕事を済ましたほうが時間も努力も無駄にならない。今日1時間かけて説明するのは、明日5分の説明で済むようにしたいからだ。日々毎日一時間かけて説明して結局自分がするのでは、仕事が万倍にも増えてしまう。
でも説明しても仕事が分からない人でも、少なくなからもまだ希望がある。人には慣れ、不慣れがある。いつしかそんな彼らも相性が合う分野を見つけられるかもしれない。
反対に全く救いようがないのが突拍子もなく非常識な人。
最近こんな話を聞いた。僕の同僚が後輩に「相手側に***に関して連絡取ってくれる?」という内容のメールを送った。そうしたらこの後輩、「以下の件、よろしくお願いします」と書いて、そのメールをそのまま相手側に転送したらしい。
こんなことをする人は指導しようがない。僕など絶対にそんなことしないし、しようと思ったことも一度もないから、指示を出す時に「あれこれをするな」といって防止することも出来ない。これは仕事の内容が把握できているかの次元を超えて、社会人として、というか人間として、機能出来るかどうかに関わってくる気がする。同僚は「彼女は助けが必要だ」と同情らしきことを言っていたが、お人好しの僕でさえこんな後輩はさっさとクビを切るべきだと思う。内部のメールを外部に転送するような常識を知らない人に今さら常識など教えられない。指導する時間をかけるのは無駄というより危険である。いつ自分の指示がとんでもなく解釈され、過ちが自分のせいになるか分からない。
まだ仕事場なら救いようがない人は切り捨てればいいから話は楽だ。友人関係はそう簡単に割り切れない。
ロースクール時代に知り合った友達がいる。僕と同じく大学をボストンカレッジから卒業し、ボストンカレッジの夜間学校で文学修士を取得中だった。年は僕より上。大学を卒業したのも多分彼が先だと思う。
始めて知り合ったときから彼は弁護士になりたいと言って僕に助けを求めてきていた。統一試験の勉強や受験先などいろいろ相談にのったのだが、アドバイスを生かす事は無く、米国でロースクールに通い弁護士になった誰もが、「そんなことをするな」という道を進むと言って聞かなかった。それならば、応援しようと思ったら、数ヵ月後に弁護士の道を挫折した。その後、今度はラジオのトーク番組の司会者になるだの弁護士補助員になるだの、会うたびに違う未来の計画の話をするようになった。「とにかく職に就きたい」と言っていたので履歴書の準備などに手を貸したのだが、今度は自分に合う仕事が見つからないと始まる。本当に職に就きたいのなら地元のWalmartで働け、と言ったら、「俺はボストンカレッジの卒業生だ」と、全く的外れでうぬぼれた返事が帰ってきた。
そんなことが続いてもう四年。最近になってまた「俺は未来のことに関して決断した」と過去にもう聞いたことをまた言って来たので、嫌気がさした僕はいつもより少々厳しい口調で前から言っていることを伝えた。そうしたら、「お前は弁護士として偉そうな口をたたくので、もうさんざんだ。絶交してやる。」と切り捨てられた。状況からもメールの論調からも本気だった。悪いヤツではないので友情を失うのが嫌だったから、直ちにメールで謝りもう二度とこの話をしないと約束したら、なんとか許してもらえた。
でも、余りいい気はしない。僕も言い過ぎたかもしれないが、4年間感激することを何一つしていないのは彼である。事実を語って癇癪を起こされてはたまらない。
貴重な体験だった。腹を割って話が出来る友人と、そうではない友人がいること。友人だからといって、助けなければならない訳ではないこと。そして何よりも、助けてほしいと言っているからと言って助けても、報われないときがあること。
人間としてひとまわり大きくなった気がする。