何より食を愛した祖父の笑い話

父方の祖父が亡くなってもう久しいのだが、わが一家では未だに笹沼宗一郎ゆかりの話で盛り上がる。とにかく面白い、母曰く、愛嬌のある人だったようだ。

祖父は陸軍だったのだが、平気で敵国アメリカのピストルを身につけて歩き回っていた。この銃は戦後も米軍に手渡さず、彼の死後、祖母が蔵を整理していたら出てきたそうだ。実物だと知っていた祖母は交番に届け出たのだが、警官は日常銃を扱い慣れていないのかおもちゃだと思い、詳しくその場で状況を聞かなかった。後に本物だと分かり慌てた電話がかかってきたという話を聞いた事がある。

彼は自宅に暗室を構えていたほどの写真家だった。カメラと言えばドイツ製。戦争中、ドイツからカメラを潜水艦に乗せて密輸入した、なんて言う事を聞いた覚えがあった。なんか祖父ならあり得そうな話だったのだが、父曰く「あれは職権乱用」だそうだ。

祖父は陸軍省の監督官で、専門は写真の感光材料。「日本の全メーカーの上に立って威張っていた」らしい。ドイツでライカの新製品が出て、どうせ上官に「こんどドイツで発売されたライカは画期的で日本の写真産業の発展になくてはならないものなので、どんな手段をとっても入手すべき」らしきの、うそ八百の上申書を書いたのだろう、というのが父の憶測。祖父は東京大空襲のときそのライカを持って逃げ、軍服・サーベルを焼失。上官の大佐に「カメラを助けて、天皇閣下からお預かりしているものを置いて逃げるとはないごとか」と当然の事ながら怒鳴られたそう。

こんな話もある。父が中学生か高校生の頃、指定された参観日でもないのに学校に現れ、クラスの後ろで1人で授業の様子を観察した事があるらしい。これは父にとってめちゃくちゃ恥ずかしかっただろう。こんな事されたら僕など絶対父を許さなかっただろうが、父もこの話を余りしないのは思い出したくないからか。

行動も面白い人だったが、言う事も面白かった。若い頃寝坊だった彼は、「早起きは三文の得」と言うことわざに対して、「三文ぐらいなら寝坊する」と答えたらしい。

色々話題性のある祖父も、話の大半は食べる事に関してだ。東京大空襲の時に救ったのはライカだったが、関東大震災のとき祖父が持って逃げたものはサイダー。食べる事が人生の生き甲斐である僕も、祖父の食好きさには負ける。父は生涯にとうとう祖父から一度も食べ物を分けてもらった事がないと語っている。父の子へ対しての典型的な愛情の表現は食卓で見られがちだが、祖父は例外だったらしい。

祖父は、曾祖父が大変なアル中だったことを嫌ったこともあり、酒は全く飲まなかった。よって、彼の食事は食卓に座ったとたんに始まる。僕や従兄弟などの孫が集まると食事は子供の時間と大人の時間に分けられるのだが、祖父は孫と一緒に食事を始めて大人とともに終えた。

「嫌いな物は何?」と聞かれると「まずいもの」と答えるのだが、量にも結構うるさかったよう。旅館に泊まったある時、夕食の量が少なくて、生卵を頼んでご飯に醤油と混ぜて食を足らした事がある。それを食べながら女中に聞こえるように「この旅館で一番旨い物はこの卵だ。」と嫌みを言ったそうだ。祖母によると、これは味よりも量の少なさに対するあてつけだったらしい。旅館料理といえば鍋物や焼き物が定番だが、こういう時でも「何だ、ここは客に料理をさせるのか」と一言出たようだ。

量が少ない典型的な例が京都の懐石料理。これを祖父は「鼻糞料理」と呼び捨てていた。これはさすがに失礼だと思うが、僕も「懐石料理は品がいいんだかケチなんだか分からない」とよく言う。孫も大して変わらない。

何でも食が中心の人だったから、当然の事ながら旅行も食事が目的だった。下関への出張は「ふぐ出張」と名付けられており、冬以外には行かなかったそうだ。会社を継いだ父は冬に限らず下関に行くらしいのだが、祖父が生きていたら「何やってるんだ」と怒鳴られる、などと半分面白げに、半分まじめに語る。

東京浅草の旅も似たようなもの。浅草で祖父が最も興味があったのが浅草寺前の通路にある人形焼き屋。二袋買うと、お参りはお寺に向かってお辞儀をするだけで帰ってしまったらしい。その人形焼きだが、一袋は与野(現在のさいたま市)への帰宅のドライブ中に食べ切ってしまうそうだ。昔は東京–与野の旅が大分かかったとはいえ、その食欲はただ事ではない。

年がら年中食べていた人だから体型も大きかった。と言うか、完全な肥満といったほうが相応しい。妹が幼児時代に描いた祖父の絵は、腹が3つの団子のように書かれていたそうだ。体重を絶対に知られたくなかったため、人が近づくと体重計から飛び降りてしまったらしい。

そんな祖父も亡くなるちょっとまえにダイエットを始めた。これは親類や友人の間では広く知られていたことで、なぜかと言えば、ダイエットを始めた事を知っている人に片っ端から電話をかけて報告していたからだ。こんな子供っぽらしさが祖父の魅力だったのかもしれない。

祖父は僕が渡米するちょっと前に亡くなった。幸せな死だったと思う。その日、彼は高位な僧侶の集まりの記念写真を撮りにいっていた。シャッターを押すか押さないかで倒れて、そのまま睡眠に入って亡くなった。心臓発作だったのか脳溢血だったのかよく知らないが、苦しみもなく、ほとんど即死だっただろう。大好きな趣味をしながら僧侶に囲まれて死ねるなんて、たいていは望んでもかなわない。

祖父は死後まで人を笑わせた。死を確認した祖母が自宅に戻ったら、蔵に祖父がダイエットの為に着ていたコルセットが脱ぎ捨てられていた。ダイエットなど構わずに大好きなお寺の弁当を存分食べるつもりだった祖父の姿を思い浮かばせる遺品である。彼の生涯唯一の後悔は、その弁当を食べ損ねた事だろう。

父から先の新年に祖父作の俳句を教えられた。ユーモアがあり食に関していて、祖父のイメージにぴったりである。

正月や

餅で押し出す

去年糞

 
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