慶喜への憧れは情のもろさから

僕は情にもろい。

友人にはこれは取り柄だと言われる。僕も友人には思いやりや忠誠心を望むだけに、なぜそう言われるのか存分に分かる。

しかし論理を重んじる弁護士と白黒をはっきりさせるのを好む正義感が、自らの情のもろさに違和感を感じることがある。家族か友人が僕へ手を差し伸べたとき、論理的に考え、正義に基づいて出した結論が情に反するなら、迷った挙句に情を選ぶであろう自分に弱さを感じる。正しい道が分かっているのに進めない自分に。

徳川慶喜は違った。幼年時代から徳川家康の再来とまで称されるほど利発であった慶喜は、論理を基に常に動ける強い人でもあった。彼は論理に筋を通すためなら何でも犠牲にし、誰に対してでも非情になれた。江戸幕府という政体はもう続かぬと悟るや、渋々引き受けた将軍職を捨て、迷わずに自ら江戸幕府260年の歴史に終止符を打った。旧幕臣が徳川家のため、ひいては慶喜の為に立ち上がるや、欧米国だけに利を与える負け戦をするほどおろかではない彼はさっさと逃げた。人一倍に忠義心が強かった松平容保を見捨て、恭順を通した。それが清国の二の舞にならぬための日本の未来に欠かせないと分かっていたから。

最近十何年ぶりに上野へ足を運んだおりに、初めて戊辰戦争の一部であった上野戦争という戦いがあったことを知った。戦争というほどの規模ではなかったようで、寛永寺で恭順していた慶喜のために結成された彰義隊は、一日で新政府軍に蹴散らされてしまった。この、徳川家への恩をこめて結成され、戦い、死んでいった彰義隊に慶喜は何の関心も示さなかったようだ。旧幕臣である板倉勝静などが慶喜を恨むのも分かる気がする。

でも歴史は慶喜が正しい選択をしたことを証明している。慶喜が政権をあきらめ恭順を示したからこそ戊辰戦争程度の内戦で済み、日本は欧米の植民地にならずに済んだ。長州と薩摩の明治維新の功績は決して小さいものではないが、慶喜あっての功績である。情に左右されず、周りに共感者、理解者がいなくても、常に自らの論理の筋を通した強さが近代日本の基盤になっている。

僕はその強さが欲しい。論理や正義を通すのは時には孤独だ。信念を曲げ、周りに合わせるのが楽であるのを経験した事が何度もある。正義感を持つ事と誠実である事は違う。正義とは誠実に信念を貫いて始めて成立する。他人に耳を貸さないことを「頑固」ともいうが、それは波に流されない「強さ」ともいえる。誠実になるには、強くなる必要がある。

情に弱い為、忠義心や信念を貫いて散り滅びるのが美学と思う傾向がある。楠正成など最も好む歴史の人物だ。よって、幕末の慶喜の立場に置かれたら僕は会津藩や白虎隊、彰義隊や新撰組とともに散る覚悟をしたであろう。例えそれが日本の植民化へつながると分かっていても。情に弱いから。忠義心を見捨てることができないから。

そんな自分を論理的な自分がたまに許せなくなる。

強くなりたい。

誠実になりたい。

だから徳川慶喜という人物に憧れる。

 
5 Comments

コメントを残す

Translate »