「ジョーのおしゃべりトラブル」と言われている事柄に関するジョーの文書の後編(後編)

前編から続く)

4【周囲の私の話に対する受け止め方とそれに対する私の考えとそれに対する周囲の反応について】

このように私としては有意義な情報を貴重な意見と共に伝える努力を最大限尽くしてきたつもりですが、いつでも、どこでも、誰からも、私が口を開く度に、屈辱的かつ人格否定的な発言及び行為が多く見られました[注7]。また、必ずしも否定的とは言えない振る舞いであっても、そっけない反応が多かったです[注8]。

こうした周囲の冷淡な対応に対して、私としては辛抱強く我慢してまいりましたが、時には堪忍袋の緒が切れることもあり、この理不尽な対応について抗議したこともありました。しかし、周囲は私が勇気を振り絞って行った抵抗に対して、真摯に受け止めないどころか楽しんでいる節さえ見られました[注9]。私としては、こういった姿勢を直ちに改めていただきたいと心深く思います。

5【おわりに】

この文書を読んでくださった方は、様々な印象や感想をお持ちになると思います。この文書は私の一方的な言い分を記したものであり、私には被害妄想の症状が見られると思われる方もいらっしゃるかもしれません。

それでも、私がピュアかつデリケートな人間であり、毎日がんばって皆様のことを思いながら色々なお話をしており、それに対して冷たくあたることで私が傷ついているのだということを理解してくださる方が1人でもいらっしゃいましたら幸いです。

令和3年(2021年)春 ジョー

[注7]具体的には、「うるさい」、「黙ってろ」、「うざい」、「くどい」、「どうでもいい」、「興味ない」、「あんたが話したいだけだろ」、「人の話を聞け」と言った恫喝的な言葉が発せられたり、私が話を始めた途端に言葉を遮る、目線を逸らす、席を外す、うんざりした表情をする、無視を貫くといった、失礼極まりない行為を、私は数え切れないほど経験しております。

[注8]具体的には、私が徳川慶喜の素晴らしさに関する3時間の講演を始めたり、最近見た駄作映画に関する5時間の評論を始めたりすると、「また次回の機会に」とあしらわれることが多く、しかしその「次回」が訪れたことは未だ一度たりともありません。

[注9]具体的には、私の抗議に対して無視を決め込む少数の方々は優しいくらいで、大半の方は「いじられてるだけでしょう」と開き直り、私が「いじられてるのだから、肝心な『め』が抜けてる」と反論しても、「嬉しいくせに」と取りつく島もありません。いじめというのは、加害者ではなく被害者が判定するものだというのが私の理解であり、それが世間の常識だとも考えております。そして私は、自分は明らかにいじめの被害者であると認識しております。

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