2020年7月 27日
選挙ボランティア活動中、なぜかまた苗字で呼ばれなくなった(後編)
(前編から続く)
一番極端だったのは、職場が変わったある昔。上司の上司の上司ぐらいに当たるチョーえらい人から、初日は苗字で呼ばれていたのに歓迎会の頃には「ジョー」と呼び捨てにされていた。あまりの馴れ馴れしさにびっくりした同僚が「前から知り合いだったんですか」と聞いてきたが、そのエライ人に初めて会ったのはたった2週間前である。
典型的な日本人の場合、こういうことにはならないはず。純ジャパを自負している僕としては、「ジョーさん」と呼ばれるのはなんとも不本意だ。
どうしてこうなるんだろう、なにがいけないんだろう。そんな悩みを友人にぶつけたら、どうでもよさそうに「ジョーの雰囲気が『ジョー』のイメージに近いからじゃない?」となぞなぞのような答えが戻ってきた。
ひもとくと、僕には少々一般日本人にはない空気がある、ということらしい。
しかし、これには一つの誤解がある。
外国には確かに「Joe」という名前がある。だが、僕の名前は「穣」という立派な漢字であり、外人名をカタカナ化した「ジョー」ではない。
よって、①「穣は日本人離れしている」、②「ジョーは外人の名前」、だから③「穣はジョー」という論理立ては、「穣」と「ジョー」を混同させているので、成り立たない。この重要な点を強調するため、僕は最近、自分の名前をフルネームで記載する際には、必ず「穣」の部分を赤字にするようにしている。
ここまで読むとお分かりいただけると思うが、僕は苗字で呼ばれないことが若干のトラウマになっている。
なお、そんなトラウマがあるのに、なぜこのブログの名前が「ジョー、無駄に語る」なのかについては、あまり詮索しないでいただきたい。
3 Comments
滑舌の悪い私にとってサ行(s)もザ行(z)も苦手意識があり、
“ササ沼”だけど”ジょー”であることに有難みを感じています。
ちなみに根っこにあるテーマは所属でしょうか?それとも敬意の問題?
コメントありがとう!
確かに、「ジョー」は言いやすいよねー!今後もお気軽にどうぞ。
敬意はそもそも期待しても無駄だと思ってるので、根っこにあるのは所属ですね。
家庭教師の時もジョウ先生でしたね。東京弁護士会で講演したときは笹沼先生だったでしょう。
まさか、質問で穣先生とは呼ばれなかったと思いますが。