魚として生まれ変わるのなら、マンボウになりたい

魚に生まれ変わるとしたら、マンボウになりたい。僕にはそんな、ちょっと変わった思いがある。

断っておくが、これは決してマンボウになりたい、という願望ではない。あくまでも、死後、神に会い、その神にユーモアがあって、「地球に戻りたいのであれば魚として戻してあげよう」と言ってもらえた際の答えを準備しているだけだ。

僕とマンボウの初めての出会いは、小学生の時に行った鴨川シーワールドでだった。内側がビニールシートで覆われた水槽の中、下からゆっくりと浮上して視界に入ってきたこんなマンボウはとにかく衝撃的だった。

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何よりも、なーんにも考えていなさそうな第一印象が今でも忘れられない。

笑えたのが、水族館のマンボウの説明がその第一印象をまさに裏付けるものだったこと。メスのマンボウは一度に卵を3億個も産むものだが、卵を放置してしまうためそのほとんどがほかの魚に食べられてしまうらしい。そりゃ、3億個も産めば1億分の1の3個ぐらいは生き延びるであろう、とこれはさすがの小学生にも分かる計算だった。

その後、マンボウを勉強するようになって、世の中には間違えた進化をした生き物もあるのだな、と思うようになった。通常、「進化」というと賢くなることや能力が増進されることを思い浮かべるが、マンボウはどう考えても賢くならないで生存できる道を見つけた生物である。卵の産み方はもちろんのこと、全長3メートルという馬鹿でかさもそうだ。そこまで巨大になれば天敵もいなくなるから、そのように進化したのだろう。ひたすら多く産んで、でかく育って、生き延びる。「適者生存」のイメージから程遠い。

とにかくマンボウは情けない魚だ。マンボウが内側がビニールシートで覆われた水槽に飼われているは、水槽の壁にぶつかると死んでしまうからで、皮膚は余りにも弱く、手で触るだけで手の跡が残ってしまうらしい。従来、マンボウは海中を受動的に漂っているだけと考えられていたようだが、最近になってある程度の遊泳力がある事が判明したそうだ。魚なのについ最近まで泳ぐことが認められていなかったとは、マンボウも随分となめられたものである。

なんでこんなマヌケな魚に生まれ変わりたいと思うのか。

それはマンボウが僕の「人生いろいろ」哲学とは正反対の生き方をしているからだ。

以前にも書いたことがあるが、人生の面白さは「人生のいろいろ」にあると思う。人それぞれが異なる生き方をしているから、人に会えば会うほど多種多様な人生に巡り合え、世の中の面白さを実感する。

反対に、マンボウほど、生き方に「いろいろ」が相応しくない生き物はない。何も考えておらず、(母性さえもないのだから)大した本能もあるとは思えない。天敵もなくもっぱら海流に流される毎日には、山もなければ谷もない。「平凡」という表現さえも大げさに思える一生ってどういうものなのか。「人生いろいろ」を哲学にしている僕にとって、マンボウの一生には変わった意味で魅了されてしまう。

僕はマンボウの物真似を自称の特技としているが、この、すべてを無にしてゆらりゆらりと揺れるだけのマンボウ物真似、結構難しい。日頃余り何も考えていないような僕も、一応は人間だ。そう簡単には頭を空にはできない。

だから、魚になるのならば実際にマンボウになってみたいのだ。「無」の一生とはどういうものなのかを知る為に。

 
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