我が哲学、「人生いろいろ」
僕の人生の哲学は「人生いろいろ」の一言で簡潔に纏まる。
人生を語れる年齢か、と年配の人には叱られそうだが、そう長く生きてきた訳ではないものの、今までそれなりにそこそこの経験をしてきた。
日本で生まれ、米国で育ち、地元の公立校にもキリスト教系の私立校にも通った。大学では理数系と文系の分野をかじったし、社会人としては公務員としてスタートを切った。少なくとも一般的とは言えない経歴であろうと自負している。
様々な環境にいたことによって、生まれや育ち、学歴や職業、性格や特技が大きく異なる人々に出会ってきた。その他、人の趣味や個性も考慮すると、僕は多種多様な人に囲まれていて、それが最近「人の生き方ってこうも違うものなのか」ということを認識することにつながった。そして、そんな認識を持つようになり、毎日がたまらなく楽しくなってきた。
「人生」が「人の生き方」を意味するのであるならば、新しい人に出会うということは、自分とはもちろんのこと、今まで出会った人とも異なる全く新しいもう一つの生き方に巡り合えること。「こういう生き方もあるんだ」とか「こういう人もいるんだ」とか、新しい人と知り合うのは常に新しい発見につながる。
「人生いろいろ」と気付くと世の中が面白くなる一方で、自分の自分に対する考え方にも影響を与える。人生いろいろであるならば、僕と似たような生まれ育ちで同じような学歴を持った同業者であっても、僕の生き方とは当然異なる。「僕はそんなふうに考えたことないけれど、そんな考え方をする人は面白い」と感じるのは「人生いろいろ哲学」の一環だが、たとえ他人の人生が興味深いと思えても、必ずしもそれは自分の生き方の参考にはならない。と言うか、「人生いろいろ」だからこそ、他人の人生は自分の人生の模範とはならない。だから「人生いろいろ」とは生きることを面白くする哲学である反面、「君は君、僕は僕」と割り切ってしまえる哲学でもある。
もっとも、今となっては完全に口癖になってしまった「人生いろいろ」を僕が口にするのは、大体このような哲学的な深い意味を持ってではない。なにせ「人生いろいろ」は、トランプのジョーカー並みにオールマイティで、どんな場面でも通用する便利な台詞なのだ。
たとえば合コンの席で自分の世界に入ってしまった時に急に話を振られたら、とにかく「人生いろいろ、世の中もいろいろですからね〜」とでも答えておくといい。そうすると、実はなにも分かっていないのに、やけに的確なそして深いことを言ったと勝手に解釈してもらえる。うまくいけば「いろいろ」が話題になるかもしれない。
実は僕が「人生いろいろ」を最も良く使う場面は、議論中に旗色が悪くなってきた時だ。矛盾を指摘されたり主張の弱点を突かれたりしたら、「人生いろいろだからね」と切り返すと、僕の経験では相手は反論できなくなってしまう。まさに人生色々であり、それはすなわち「この世の中なんでもあり」を意味しているのだから、反論も困難になる筈だ。
そのような訳で、皆さんも「人生いろいろ」哲学を受け入れてみたらいかがか。他人との交流や生きていくこと自体が面白くなる一方で、自分の人生を我思うままに進め、自分の考えに反する人を一言で封じることができるようになる。これは決して自己中心の人生を生きる口実ではない。真っ当な人生哲学である。