歌舞伎以外が物足りない「国宝」(後編)

前編から続く)

でも、最大の問題は、喜久雄と俊介の関係の変化が早すぎることである。兄弟仲で始まった喜久雄と俊介の関係は、喜久雄に劣等感を感じた俊介が家を出て、俊介が戻ってくると今度は喜久雄が花井家を出るという経緯を辿るが、2人は突然元の鞘へ収まる。3時間の映画は編集が足らないと感じることが多いものの、「国宝」は上映時間3時間でもまだ不足感が残る珍しい作品である。

この映画は作家吉田修一と監督李相日の3回目のコラボで、「怒り」と「悪人」は双方とも良作だった。2人の相性が「国宝」で活かされなかったのは、脚本の段階で方針を間違えたからのように思えてならない。歌舞伎を綺麗に描くことに全力を注いでしまったが故に、肝心なヒューマンドラマの部分を疎かにしてしまったのではないだろうか。

840ページもある原作を映画に収めるためには、原作の多くを削る覚悟が求められる。スティーヴン・スピルバーグが監督した「ジュラシックパーク」は、原作が800ページでありながらも、映画の上映時間は概ね2時間だ。スピールバークは脚本を書いてもらう際、原作に出てくる場面のうち2つだけを必須とし、他の取捨選択は脚本家に委ねたと言う。明確な方針を持ちつつ映画は本と異なると割り切ったからこそ、スピルバーグは「ジュラシックパーク」を高い質の映画に仕上げられたのだろう。

映画「国宝」は、原作では示されない歌舞伎の表現に長くの時間を割いている。その分、原作からより多くの物語を削る必要があった。思い切って幼年・少年時代を割愛するだけで残りの物語の重みがだいぶ増したと思うが、中途半端に色々と語ろうとしたことが「国宝」を内容的に薄い映画にしてしまっている。

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