優秀な人に必要なもの。それは才能、機会、環境そして性格
「優秀な人」になるには、少なくとも四つの条件が揃う必要があると思う。
まずは才能。
もちろん、「ウサギとカメ」の話にあるように、努力をしなければどんな才能も無駄になる。でも、果たして努力さえすれば優秀になれるかというと、野球やピアノ、そして将棋や囲碁のような世界を見れば違うことが明らかだ。これらの世界では、プロやプロを目指している人それぞれが最大限の努力を尽くしているにもかかわらず、プロになれる人となれない人が出てくるし、プロの中でさえもイチローのような半世紀に一人の天才と各チームにいる控えの選手のような差がある。
プロがいるスポーツや芸術の世界では才能の差が顕著に現れるが、より身近な社会でも似たような現象がある。ビジネスセンスがないと経営者は務まらないし、方向音痴はタクシーの運転手にはなれない。もちろん長年管理職にいれば経営者になれるし、地図を読み込めば運転手にもなれるが、経営者にも運転手にも一流と二流の違いはあり、この差は経験と努力では克服できない。
もっとも、いくら才能があってもそれを活かす機会が与えられなければ「優秀な人」にはなれない。極端な例が将棋。常識的に考えて、生まれながら将棋の才能を持っている子供が日本にしかいない筈はなく、やらせてみれば実は将棋の天才、という子供が欧米やアフリカにもいるはずだ。しかし、基本的に将棋は日本人しかしないので、たとえ将棋の才能に恵まれていても、アフリカ生まれでは将棋に出会えないまま生涯を終えてしまうだろう。
巡りあう機会が必須であれば、才能を育てる環境もなくてはならず、世の中には環境に恵まれなかったために持った才能を活かせなかった人が多くいるはずだ。「環境」とは当然金銭的な面もある。特に芸術に関しては、余裕がある家庭に生まれなければ楽器や道具さえも許されない。でも「環境」とは、金だけではない。才能に理解を示す家族が必要であり、才能を磨いてくれる良き師も欠かせない。才能だけあり、周囲のサポート・システムに恵まれなければ、まさに宝の持ち腐れになってしまう。
そして、才能、機会、環境が揃っても、さらに適合な性格が必要だ。
この「性格」とは「好み」と言い換えた方が良いのだろうか。自分の体験を例として挙げれば、僕の中学・高校時代の友人に日本語、英語のいずれもネイティブのように堪能であるバリバリの文系がいる。羨ましいくらいの言語力を持っているので彼女は米国の法律家として日本で活躍できることは間違いないと思うのに、本人に言わせれば法律という分野には全く興味がなく、職には困らなくても法曹は絶対に進まない道らしい。
反対に僕は小さいころから国語・英語が苦手で、大学に入っても数学を得意としていた。それでも歴史や政治などの文系的な分野が好きであり、大学に入ってから文系の科目ばかり勉強していたら、いつの間にか英語力も法律を勉強できるくらいには上達したし、お世辞にも上手いとは言えなかった日本語も日本に転勤できるくらいにはなった。好き嫌いによってせっかくの才能がもったいなくなる人もいれば、才能が無くても頑張って何とかなる人もいるのであれば、才能と好みが一致した人こそ「優秀な人」になれるのであろう。
才能、機会、環境、そして性格。何れも自分ではどうしようもないという面では共通している。そういう意味では、「優秀な人」には結局運と運命が必要であると言えるのかもしれない。