なんとなく分かってきた、日本の集団主義

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日本人は集団主義、米国人は個人主義と良く言われる。正にそうなのだが、最近になってやっとこれが具体的にどのような社会的現象として現れるのかが分かってきた。

数年前に流行った「KY」という表現。「空気」のような曖昧なものを読めと言われても米国人は困ってしまうと思う反面、KYほど日本人の集団主義を上手く示している表現はないと思う。

例えば選択肢を与えられた場合、日本人は必ず周囲がどんな選択をするのかを気を留めて、周りに合わせようとする。それも典型的な日本人にとって、この行為は決して自分の主張を引っ込めていることではないらしい。日本人は子供の頃から周りに合わせることを学んでいるので、周囲と同じ選択をすることが我慢でも苦でもなく、自然に自分の主張にもなるようだ。

日本では大人数いる中で一人だけ違う選択をする人は身勝手であり迷惑をかけていると思われがちだが、米国人からすると、選択肢を与えられたにもかかわらず自分の意思で選択したことが批判されることが理解し難い。批判するならそもそも選択肢などくれるな、と通常の米国人は考える。

もちろん米国人にも他人と合わせようと思う場面もある。でもそれはあくまでも自らの都合の延長線上にある。「友人がいいと思っているなら多分いいのだろう」。「上司が望むようにした方が後々めんどくさくない」。このような自己中心的な心境は日本人の「迷惑になるから」という発想とは根本的に異なる。そもそも欧米には周囲を中心に考えるという概念があまりないから、「迷惑になるから」に限らず、他人への配慮を表現する「お世話になっております」とか「よろしくお願いいたします」などの、日本ではどのメールにも書かれる決まり文句が英訳しにくいのだ。

米国育ちの僕からするとこれら表現は面倒臭いとは思うが、日本には周囲への配慮があるからこそ、自由奔放な米国にはない「秩序」が日本社会にはあるのだろう。

日米における秩序の違いの最も極端な例が非常時。日本では非常時でも暴動が起こらない。東日本大震災の時でさえ、コンビニはトイレを一般公開し、非常品を買うために関東住民はいつも通り列に並び、皆協力しあって遠い道を帰宅したり、一晩寝られる場所を提供した。

対照的だったのが、2015年に米南部を襲ったハリケーン・カトリーナによって水没したニューオーリーンズ。スーパーには強盗が押し入り、暴動を鎮圧しようとした警官が拳銃で襲われた。無法地帯化したニューオーリンズと震災後の日本の冷静さの違いは米国人にさえも印象に残り、震災直後の日本の状況は米国でも大きく報道されていた。

米国人が驚く日本の「秩序」は日本人にとってはあまりにも日常的であるため、日本の学校では米国では到底考えられない文化祭や修学旅行が当たり前になっている。

米国では学校全体どころかクラス一つさえもまとまらないのだから、文化祭など思いつく人もいない一方で、日本人は集団で行動をすることに慣れているから、文化祭のような学校全体の行事もちゃんとまとまる。

米国の感覚からすると修学旅行はもっとありえない。修学旅行では高校生が3-4人のグループに分かれて大人の付き添いなく観光をすることが当然のようになっているが、米国で同じことをしたら一大事が起こる。教師も親も付き添わずに高校生を送り出して夕食までに戻って来いと言ったところで、時間通りに戻ってくる生徒は半数にもならないだろう。僕からしたら全員戻ってくる日本の高校生の方が異常だ。

もっとも、修学旅行や文化祭、そして近所の祭りなど、集団で行う行事を可能にする「秩序」の反面は、「出る杭は打たれる」とか「村八分」。僕はそもそも村の一人として思われていなく、純粋な日本人からは面白半分にしか見られていないため気楽に振る舞えるが、日本に生まれて、日本で育った人で何を何処でどう間違えたのか個人主義者になってしまった人にとって、日本ほど住みにくい国もないだろう。

 

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