僕の芸は口

「多芸は無芸」とはよく言ったものだ。僕に相応しそうなことわざだが、若干違う。

まあ、どんなことわざも多少修正すればどんな人物でも状況でもピッタリ表現できる。例えば「花より団子」。これは芸術がさっぱり分からない他、いつ世界が破滅するか分からないと言う理由で、どの食事も最後の食事との前提で大食いする僕にぴったりそうだが、実はちょっと不完成。毎日の二度の食事も大切だが、何よりカジノが生き甲斐であるため、僕は「花より団子、より博打」と、ジョー流のことわざを使っている。

「多芸は無芸」もちょっと合わない。「多芸」とは多くの「芸」に通じている事を指すが、僕は「多芸」であると褒められたことなどない。反対にどうでもいいことばかり話している、している、考えている、と毎日のように皮肉られている。僕にとってジェームス・ボンドに関する知識、小説の読書、映画の観賞、漫画の乱読、家系図の作成、飲食、博打、パズル、将棋、ブログの投稿等々はとても重要なのだが、他人にとってはどれもためになる「芸」ではなく、「趣味」ですらない、ただの「無駄」らしい。

株や政治、そして職業の法律ぐらいは「芸」とみなされて欲しいものだが、「損だけはしっかり出す投資家」、「たったの2年で主張が覆された日本政治に関する卒論の著者」、そして「主張する米国憲法解釈が80年前には認められていたが否定されてから2世代は経っている弁護士」では、得意の分野でも他人から「芸」として認められる可能性は少ない。

このように、良くて「趣味」、悪くて「無駄」が多い僕は「多芸」と言うより「多趣味」と言ったほうがよっぽど相応しい。ただ、よくよく考えてみたら「多趣味は無芸」では余りにも語呂が悪いし、そもそも意味が無い。どうせ訳わからないまでにことわざを変えるのならば、「能無し馬鹿は飯を食う」を使ったほうがずっと賛同を得られそうである。

「無芸」であろうが「馬鹿」であろうが取り柄が無いことには違いがないのだが、無芸で今まで生きてきた僕に言わせると、無芸もそれなりに得することがある。最近の具体的な例が将棋。日本に来てやっと将棋に触れる機会ができたため、月に2回地元の将棋教室に通っている。4時間で3千円なのだが、この1時間750円は激安。何せ米国で家庭教師をしていた際に中学生の教え子に負けたぐらい弱いのだ、学ぶことは多い。この前など、手を打った直後に先生が「次は何をしようと考えていますか」と聞いてきたので、考えていた次の手を打ったら、「その手は変だから辞めましょう」、とひどく下手な手を打ったことを軽く指摘されてしまった。ここまで下手だと毎回々々急激に上達しているようで嬉しくなる。下手の反面は上達せざるをえない、と言う事なのだ。

反対に面白くなくなるのがある程度の能力を会得してしまった時。一定の知識を得るとそれ以上上達するのにはとてつもない努力が必要となる。経済学でこれを「収穫逓減の法則」と呼ぶらしいが、ドラクエの例えのほうがずっと分かりやすい。「ドラクエ VI」をやった人は覚えているかもしれないが、このゲームでは倒した敵が時々味方になる。弱いまま味方になるから仲間は当初普通の強さの敵を倒してもレベルがぐんぐん上がるが、いずれレベルが上がる頻度も主人公と対して変わらなくなる。そしてもともと弱いモンスターはレベルに限度があり、一定のレベルまで上がるといくら敵を倒してもそれ以上はレベル上げが期待できなくなる。

僕のような「無芸」である人はドラクエの弱いモンスターみたいだ。知識や能力のある人から学ぶと当初はぐんぐん伸びるのだが、才能が無いために遅からず頭打ちになる。そして更なる進歩がない事に対してフラストレーションが溜まる。

この状況にどう対応するかは人によって違うだろうが、打たれ弱く性格が軽い僕は、「所詮才能がないものは仕方があるまい」、とさっさとと諦める。そのようにしてテニスも水泳も数学も捨てた。ネガティブ思考だ、と言われるかもしれないが、報われない努力を注ぎ続けるほど僕は暇ではない。そもそも僕は気が多いのだ。上述した以外に、アメフト、ボストン・カレッジへの愛着、野球、日本の歴史等、まだまだ趣味はある。駄目なものにはさっさと見切りをつけて新しい趣味を開拓したほうがずっと楽しいし遣り甲斐がある。

そしてこれがとても性格に合っている。沈黙が大の苦手の僕にとって、話の種は空気と同じくらい生きて行くのに必要な要素である。ただひたすら喋るためには深い知識や専門的な意見など全く要らない。ある課題について話すことが尽きたら次の課題に移ればいい。肝心なことは喋りたいことがポンポン頭の中で浮かぶこと。周りの人にはこれが大迷惑であると思う人もいるかもしれないが、そのような人達にはただ意味無くも喋ることが僕の「芸」と考えて頂きたい。

 
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