僕の徳川慶喜に関する葛藤
来月の11月9日で大政奉還からちょうど150年。徳川慶喜のファンとしてこれを記念に慶喜イメージアップキャンペーンを実施中であるが、一向に最後の将軍の評価を上げることに成功していない。
なんとも残念なことである。
徳川慶喜ほど過小評価されている日本史の人物はいないのではないだろうか。
慶喜というと、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで敗北した後、旧幕府軍が陣取っていた大阪城から深夜密かに敵前逃亡した臆病者をイメージする人が多いだろうが、これはとんでもない誤解である。禁門の変で京都に攻め入ろうとした長州藩の軍勢を自ら指揮をとり蹴散らした者が臆病者であるはずがない。
慶喜が誤解されやすいのは、彼の頭の回転が早かっただけでなく、彼が凡人では理解しきれないほどの先見力を有していたからである。
慶喜は当時の国際情勢に明るく、幕府の存続と権力の維持に拘ると日本が欧州諸国により食い荒らされることを見通していた。清の二の舞になってはならない、日本の植民地化だけは避けなかればならないと考えていたからこそ、彼はさっさと政権を捨て、新政府がその政権を拾えるようにした。明治維新のような封建時代から近代への移行が、戊辰戦争程度の規模の内戦で成し遂げられたことは世界でも稀で、この奇跡の最大の功績者は徳川慶喜である。
そんな慶喜について僕が憧れるのは、彼の英明さだけではない。日本の将来を救うためなら、彼は旧体制だけでなく人間もバシバシ切り捨てられた。通常、人はそこまでして信念を貫くことはできない。西郷隆盛がそうだったように、誰でも大抵は情に流される。なんと言われようとどう思われようと己の道を進むことはひどく孤独であり、その孤独さに耐え抜いた慶喜の強さに僕は感服する。
でも、その強さの犠牲になった人物のことを考えると、僕は到底慶喜のようにはなれない、とも思う。
白虎隊で有名な会津藩の藩主であった松平容保は、慶喜が大阪城から抜け出した夜、何の説明もなしに「ちいとついてこい」と言われ随行してしまった悲劇の人物である。その時容保は、まさか慶喜が大阪城脱出を企んでいるとは思いもしなかったに違いない。僕は、不本意にも家臣を見捨てることになってしまった容保に対して深く同情してしまう。
この容保への同情は、滅びの美学に対して感じる魅力とも共通しているのかもしれない。
日本史の大きな節目について読む時、僕が感情移入してしまうのは必ずと言っていいほど古い時代を守ろうとして散っていった者達だ。だから僕は、平宗盛や楠木正成、朝倉義景や武田勝頼の最期について学ぶことを好む。
これら人物は、将来を切り開いた徳川慶喜とは大きく異なる。時代の流れについていけなかったり、時勢のゆくてを見誤ったりした、悲しく情けない人たちばかりである。でも、彼らのことを考えると僕は思ってしまうのだ。古い時代を守ろうとする人がいてもいいではないか、と。
常に理論的で将来ばかりを見ていた徳川慶喜に憧れることとは矛盾するかもしれないが。