良くも悪くも、楽しめる映画は記憶に残る映画
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僕は今まで600~700本の映画を観たことがあるが、これだけ観てようやく気付いたことがある。
それは、ほとんどの映画は平凡、ということだ。
これは必ずしも悪いことではない。
当たり前のことだが、悪い映画を製作しようと思うプロはいない。映画の製作に携わっている誰しもが、良い映画を作ろう、楽しんでもらえる映画にしよう、という目標を持って頑張るので、ほとんどの映画は「平凡」の水準に達する。
反対に、映画を作るということは通常思われている以上に大変なので、作品が平凡のレベルを超えることはほとんどない。
だからこそ、「記憶に残る映画」とは良くも悪くも稀な体験である。
記憶に残る名作、いわゆる「傑作」とは、他人に勧める映画で、かつ何年経った後でも再度観たくなるような映画だと思っている。他人に対しては貴重な時間とお金を費やしてまで観ることを勧め、自身に関しては既に観ているのに更なる時間をそそごうと思える作品は、数年に1本の頻度でしか現れない。
どうして「傑作」がそこまで稀になるのかをよく示しているのが「64(ロクヨン)」だ。
横山秀夫の小説を原作とし、佐藤浩市が出演、瀬々敬久が監督したこの映画は、邦画が豊作だった昨年、僕の年間Top 5にランクインしたほど良くできていた映画だった。ただ、この映画の惜しかったのが、後篇の転機となる肝心なところで重要な場面が唐突に現れるという大きな編集の過ちを犯していたことだ。
この失敗は、前編・後編をわたる240分のうちたった数分間を占めるものであった。この一瞬を観て改めて感じたのは、映画製作とはなんと難しいのだろう、ということだ。
良い映画を観た人が口にする感想は大抵「さすが~監督とか」とか「~の演技が良かった」だが、映画を成功させるためには俳優や監督が優れているだけでは不十分だ。映画には脚本や音楽、セットや衣装、撮影や編集も欠かせない。これらすべてが優れて初めて「傑作」ができあがるが、それはまるで、空中に投げたバラバラのパズルが床に落ちた時にははまっているというくらいありえないことで、だからこそ僕は、傑作に巡り会うと魔法を体験しているような気分になる。
もちろん、傑作があればその正反対の駄作もあり、後者の鑑賞もそれなりに楽しめるものだ。何しろ駄作とは、映画製作に携わった人すべての「良い映画を作ろう」という思いと努力が水の泡となってしまった悲劇の産物なのだから。
昨年楽しめた駄作といえば「クリーピー 偽りの隣人」だろうか。これは「不作は最初の15分で決まる」という僕の持論を立証するような作品だった。全然怖くない場面で「これから怖いことが起こる」BGMが流れたあたりで「傑作」には遠く及ばない映画であることを理解した。もっとも、その程度の欠陥しかないのであれば「平凡な映画」で終わったのだが、この映画、話が進めば進むほど馬鹿らしい展開になり、救いようのない脚本を懸命に演じる哀れな香川照之を観ながら、これは見物だ、と楽しめてきた。
駄作を見ることを好む人は少ないかもしれないが、僕は平凡な映画を見るよりはずっとマシだと考えている。映画鑑賞とは結構高い娯楽だ。たった2時間程度のために2000円近く払うのだから、忘れてしまうような体験が実は一番もったいない。駄作の鑑賞は2000円で買った一生忘れられない体験と考えれば、駄作にもそれなりの価値を見いだせるのではないだろうか。