小6の漢字能力では読めぬ名前・地名
最近漢字の勉強をしようかと真面目に考えるようになった。
発端は後輩の発言。ある日僕がカレンダーに書いてあった「挑戦」という言葉を、「モモノタタカイ」、すなわち「モモタロウ」と読んで以来僕の国語力に疑念を抱き始めたらしい彼は、しばしば僕の漢字の抜き打ちテストをするようになった。この前も「割愛」の読み方を聞かれたので、素直に「ワリアイ」と読んだら、「やっぱり」と諦めの表情で納得されてしまった。「普通の小6だったらそう読むでしょう」と言い訳をしたら、「ジョーさんは社会人になったんだから…..」と、もう少し漢字のレベルを上げるよう促された。
実は高3の時、「癖」、「避」、「壁」、「璧」等、似た字をまとめて覚えるなどの工夫をして小学で学ぶ漢字を猛烈に勉強したことがある。この時の努力で小学生レベルの漢字を極めたことが今までは一つの自慢だったのだが、この歳になって漢字が小6のレベルであることは、大して威張れることでもないようだ。
もっとも、漢字を勉強しろと言われてもどこから手をつけたらいいのか、さっぱり分からなかった。そこで思い出したのがまだ米国にいた頃、塾の同級生が人の名前を覚えると漢字が読めるようになると言っていた事。人名を漢字の勉強に活用できるほど日本人との付き合いがなかったその頃の僕は何とも反応しようがなかったが、来日して二年近く経った今、その時言われた事が今では何となく分かるようで実は全く分からない。
確かに日本人の名前に日常的に触れるようになり、漢字の読みのセンスが磨けた気がしないでもない。例えば「治」や「修」は「オサム」と今ではしっかり読めるし、よくよく考えてみたら「治める」や「修める」という言葉があるのだから、「オサム」という読みはちゃんと筋が通っている。一方、「理」も同じく「オサム」と読むが、これは到底日常的な「理」の使い方からでは読めない。「オサム」と読めるようになったのは最近、向井理という俳優の存在を知ったからである。
名前のややこしいのは結構当て字っぽい漢字の読み方が多いこと。去年大津で選挙活動した際に名刺交換をした秘書さんが僕の名刺を見て、「実はうちの息子の名前もササヌマさんと同じ字なんですよ」と言われたので、「ああ、じゃあミノル君なんですね」と確認してみたら、「いや、『ユタカ』と読むんです」と意外な答えが返って来た事がある。
実は、漢和辞典で「穣」を引くと、音読みの「ジョウ」と訓読みの「みのる」という二通りの読み方しか出てこないが、名前の読みとしては(何となく「みのる」に似ている)「ユタカ」の他、またもや由来が分からない「おさむ」や江戸時代の百姓の名前みたいな「しげ」や「わら」というのもあるようだ。たとえ「穣」を「おさむ」と読めるようになっても、日常的な漢字能力アップにはつながらないような気がする。
人名に関しては同じ名前に何度も出くわすから、それでもまだ徐々に自然に読めるようになれる自信がある。他方で地名はどうしようもない。たとえば最近乗った東海道線上にある「国府津駅」。これは「コウヅ」と読むらしいが、「コクフ」の「ク」と「フ」は何処に消えたのだろう。「二宮駅」というのもあるが、これは「源頼朝」などでもおなじみの、書かれてもいない「ノ」を読み込むパターン。まったく、フランス語じゃあるまいし。
僕が日頃使っている日比谷線上にも変な「北春日部」という駅があるが、一体どういう読み方をしたら「春日部」を「カスカベ」と読めるのだろう。この駅名、特にアタマに来るのは、「春」と「日」と「部」という、僕でもちゃんと書ける(小学校で学ぶ)漢字で構成されていること。どうせ簡単な字を使うなら、簡単な読み、たとえば「ハルヒブ」、または少なくとも「シュンカブ」にでもして欲しい。
「春日部」のように独特な読みの地名にはそれなりの歴史的な理由があるらしいが、訳の分からないローカルな事情を日本全国に押し付けないでもらいたいと思う。近年の「平成の合併」の一環で「つくば市」や「さいたま市」などの平仮名の市名が増えてきているが、とても良い心掛けである。春日部市にも見習って欲しい。
「漢字の勉強をしよう」、と志を高く掲げて始めた筈のこの投稿。いつの間にか、「読めない漢字の方が悪い」、と逆ギレの投稿になってしまったように見えるかもしれないが、ことわざにもあるではないか。
「読めぬなら、変えてしまえ、地名など」