「桐島、部活やめるってよ」はいまいち物足りない

6/10

僕の友達に、米国作家であるアプトン・シンクレアが書いた「ジャングル」という本を基に脚本を書いた者がいる。原作は英語で300ページという長さであるため読んだ事がないのものの、以前にもこの友人の脚本を読んだ事がある僕は、最新の作品の感想を聞かれた。「前作と比べると大分上達したな」とそれなりに誉めたのだが、「多少登場人物が多すぎる」と付け加えたら、「これでもだいぶ原作から削ったんだよ」と苦笑いしながら返された。原作と比べて映画版はいつも劣るな、と考えていた僕に、本はそう簡単に映画化できない事を僕の友人はこの時教えてくれた。「桐島、部活やめるってよ」を観ながら改めてその事実を思い出した。

「桐島」は、ある高校のバレー部のキャプテンである桐島が部活を辞めた事によって始まる。原作と同様、映画に桐島は現れない。代わりに、桐島の退部がもたらした波紋をバレー部の補欠の風助(太賀)、プレスバンド部の佐和島亜矢(大後寿々花)、映画部の前田涼也(神木隆之介)、ソフト部の宮部実果(清水くるみ)、野球部の幽霊部員である菊池宏樹(東出昌大)の5人を中心に語る、というのが設定となっている。

同じ話を違う視点から語ると手段はよく小説で使われる物語の技法であり、映画でも決して珍しくない。ただ、この技法を使って良い映画を作るのは相当難しい。というのも映像で物語を語るには話を前進させながら進めるのが自然で、時間を戻してまで違う視点から話を語り直すのは、各視点にそれなりの意義・必要性がないと、ただの仕掛けに見えてしまう。この方法が成果をもたらしているのが、黒澤明の「羅生門」(1950)。この映画には、ある女性への暴行を数々の視点から語ることによって「真実とは何か」という質問について深く考えさせられる。対照的なのが「バンテージポイント」(2008年)で、この映画の同じ場面が何度も巻き戻されるしつこさには早々と嫌気がさす。

「桐島」も、桐島の退部が周囲に知れ渡るまでの時間を違う視点から数回語る構造を取っている。これは原作が使った技法を映画でも用いた形だが、余り功を奏したとは言えない。なにせ視点一つ一つをわざわざ個別に語る意義が見えないのだ。そのため、この技法を使用したのは各視点の重要さを強調するためというよりも、原作でバラバラに語られていた各登場人物の視点を上手く一つの話の流れに組み合わせる創造力が脚本家(喜安浩平、吉田大八)に欠けていたからに思えてしまう。どうしても比較してしまうのが「告白」(2010)。原作が「桐島」と同じく違う視点から書かれていたのにもかかわらず、「告白」は見事な程自然的な流れで話が語られている。

各視点の重要さが薄い理由のひとつに、どうも登場人物が多すぎることがあるように思えて仕方が無い。佐和、前田、宮部、菊池以外にも、宮部の友人である梨紗や沙奈など、他の桐島の同級生も数多く登場する。なるべく大勢を登場させようとしたのは原作になるべく誠実な映画を制作する方針に基づいてのことなのかもしれないが、登場人物が増えれば増える程一人一人の展開 がおろそかにされがちである。宮部と彼女を取り巻く友人の場合は特にそうで、この3人の話が映画のテーマである桐島の退部にどう関連しているのか分かるよう、登場人物が十分展開されていない。

展開が不十分であれば、結末には満足感が得られない。最後の校舎の屋上での喧嘩の場面には、各登場人物に関わる話がまとめきれず、仕方無くストーリーを結末にこじつけたかのような無理さがある。最後のヤマ場を観ながら、余りにも大きく広げすぎて畳めなくなってしまった風呂敷の始末に困る自分を場面を思い浮かべてしまった。

若い登場人物が多ければそれを演じる俳優の演技力に差が出るのも予想されることなのかもしれないが、それにしても「桐島」に出演する俳優の演技力には雲泥の差がある。原作には主人公と言える人物はいなかったが、映画では神木隆之介が演じる映画部の前田が主人公。神木の演技力は抜群で、スポーツはダメでクラスでは存在感がなくても、映画制作になると全く別人になる映画オタクを見事に演じている。また、前田と同じく映画部所属の武文を演じる前野朋哉とのコンビがよく、特に撮影の場所を確保しようと佐和島と交渉する場面は、原作にはなかったユーモアがごく自然に映画に盛り込まれている。この映画の見所は神木隆之介が出てくるシーンである。

それに比べて東出昌大の演技は余りにも物足りない。彼が演じる菊池は、勉強もスポーツも万能であるものの何にも入り込めなく、冴えないが映画制作と言う何かを持っている前田と対照的であるため、特に重要な役割を果たしている。それにしては菊池の存在感は薄すぎる。静かであるのはイメージにあっているが、野球部に所属して期待もされているのに参加しない心境が全く伝わらない。これは登場人物の展開が不十分な脚本のせいかもしれないが、結果的に、感動的になるはずの菊池が登場する最終場面が、原作を読んでいない人には全く意味がわからない展開となってしまっている。

「桐島」は、原作の良さと神木の演技力が生かされず、潜在力が無駄になってしまっているという意味では、何とももったいない映画である。

 

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