納得できない「給料をもらっているんだから当たり前」という理屈

外資系企業にしか勤めたことがない僕は幸い経験した事がないのだが、典型的な日本の職場では理不尽なことを結構言われるようだ。

最も耐え難い例は、仕事に関して愚痴っぽいことを言うと、「給料をもらっているのだから、仕事をして当たり前でしょう」と返されること。

こんな発言をする上司がいる職場自体が信じられないが、この発言に対して「仕事だから確かに仕方がないよね」と納得してしまう多くの日本人の感覚も僕は到底理解できない。

職場の環境や仕事の内容に関する相談をした相手に「給料をもらっているのだから...」などと金を持ち込む返事をされたら、僕は絶対開き直る。「言っとくけど、高校時代から株に投資をしている俺にとって、金の話は最も得意な分野だ」と。雇用者が被雇用者である僕との関係を金銭問題で片付けようとするのであれば、僕は給料と仕事の量と質を天秤にかけ、報酬が仕事に見合っていないと判断した時点で、それ以上の仕事はしない。金銭的に割り切るというのはそういうことである。

このような雇用関係には恩も義理もない。

早朝までの残業や自分の職務に含まれていない作業の手伝いは、給料をもらっているからではなく、同僚と協働し助け合いながら、共有している仕事を最も速やかにそして効率的に達成に導きたいと考えるからである。金銭的な考察のみでは徹夜は出来ない。

そもそも、被雇用者に向かって「給料を払っているのだから...」と恩着せがましく言う権利は雇用者にはない。一度きり、それも長くて100年弱しかない人生において、最も貴重なものは「時間」。その貴重な「時間」(それも最も生産的な年齢における時間)の大半を職務に捧げるのだから、雇用者が従業員に対価を提供するのは当然のことである。

もっとも、この「対価」は何も給料という形態で提供されるばかりではない。多くの米国大学生が無報酬であるのにもかかわらずインターンシップを重視するのは、インターンシップを通して得た経験、広がった視野そして築いた人脈に金銭的には量れない値打ちを付けるからだ。これは日本でよく言われる、「会社を通して社会に貢献する」という姿勢に意義を感じることに相当するのであろう。

もちろん、僕は雇用関係において被雇用者の方が偉い、と主張したいわけではない。時間に対して金銭的な報酬や経験等の対価をもらっている被雇用者が、その対価に相当する仕事を雇用者に提供するのは当たり前のことである。「当たり前」という概念は、雇用者と被雇用者、お互いに該当する。

雇用関係とは結局、雇用者と被雇用者の利害が一致した時に成立する。給料を支払う方が偉いわけではないが、時間を提供する被雇用者が偉いわけでもない。その対等な関係が崩れたとき、またはそのバランスが崩れたと片方が考えるようになった時、雇用関係はぎくしゃくし、いずれ崩壊する。「給料をもらっているのだから...」旨の発言は、相手を尊重せず、このデリケートなバランスの存在を根本的に否定するような発言であり、我慢ならない。

僕がこのような主張を展開すると日本の慣習を理解していない、と反論されるかもしれないが、僕からしたら「だからどうした」である。日本の社会において非合理的で理不尽なことが「常識」であるならば、その「常識」自体が間違っている。「みんなそうなんだから」は泣き寝入りせねばならぬ説明にはならない。

 
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