佐久沼條治という、ある迷惑男の話
この物語はフィクションであり、主人公である佐久沼條治の名称および性格と立ち振る舞いが著作者のものと瓜二つであることは、すべて偶然です。
「絶対、大丈夫」
こう断言した佐久沼條治(さくぬまじょうじ)を、左飛道(さひみち)レヌはあからさまにうんざりした目で見つめた。
「本当ですか」
無駄とは分かっているものの、レヌは一応確認する。
「僕が言うんだから間違いない」
また、だ。この根拠のない自信は何処から来るのだろう、とレヌはいつも思う。
「どうしてそう思うんですか」
レヌは食い下がってみたものの、帰ってきた答えは「僕のカン」だった。
思ったとおりの、何のあてにもならない答え。いまさら期待はしていなかったものの、この日常のやり取りにはさすがに嫌気がさしてきた。
新卒として入社し法務部の佐久沼の下に配属されてまだ半ヶ月しか経っていなかったが、レヌは既にもう、この、自称マンボウのモノマネを特技としている上司に物事を任せておくとヤバイことになりかねないことを学んでいた。
「実は私、本件について外部の弁護士に相談したんですけど、弁護士先生には絶対にやめといた方が良いとアドバイスされました」
レヌは火の粉が自分に降りかかってきてはたまらないので、頼りになる知人弁護士に勝手に相談を持ちかけていた。そもそも佐久沼は仕事に全く関心を持たないので、頭越しに話を進めても何の問題にもならない。
「あ、そう。まあ、世の中色々な意見があるからね」
また出た。このセリフ、旗色が悪くなると佐久沼は必ず口にする。
なんでこんな男が上司なのか。レヌは改めてため息をつく。
佐久沼曰く、彼は前の職場で一緒に働いていた元同僚に誘われてこの会社に入社したらしいが、スカウトされたなんて到底信じられない。反対に、その元同僚が佐久沼の入社日に退職願を出した、という噂は容易に信じられた。レヌ自身、佐久沼の下についた3日目に退職願を出すことを真剣に検討した。
「そんなことより、重要なことを思いついんだけど」
と、既に本題に興味を失ったようである佐久沼は、会話を変えようとする。この「重要なこと」とは、十中八九マシなことではないことを、レヌは入社二日目で学習済みである。
「昨日、ハルヒブまで行ったんだけどさー」
「ハルヒブ?」
「ハルヒブ」とは「春日部」を指していることにレヌが気づくまで、たっぷり2分17秒かかった。
これでも早くなった方だ。入社日に「桃の戦い」の重要性について長々と語られた際には、なぜここで桃太郎の話が出てくるのかと37分も真剣に考えてしまった。どうやらそれが「挑戦」の読み違いらしいということに気づいたのは、2時間13分後であった。
司法試験に受かったとは到底思えない無知さを常に開かすのが佐久沼條治という男なのである。実は高校受験に失敗して世にも稀な高校浪人を経験しているという噂が社内では根強く、これはだいぶ信憑性が高いとレヌは踏んでいる。
「なんでカスカベに行ったんですか」
一応上司なので話は合わせるが、誤読は訂正しておく。
「念願の、東京メトロ日比谷線中目黒〜南栗橋間制覇を達成するためさ!」
と誇らしげに語る佐久沼に対して、またしても随分と馬鹿げたことを思いついたものだ、とレヌは感心した。
もっとも、これは大してびっくりするほどのことでもない。
この男、地元のタクシー業界全てを敵に回した後、二千円札を持ち歩くようになったという、意味不明な行動に出る変人なのだ。とにかく動き回ると周囲が迷惑を被るため、レヌとしては佐久沼にはなるべく何もしない平凡な毎日を過ごしてもらいたいと思ってる。
それにしても、よく春日部にたどり着けたものだ。佐久沼の方向音痴さは世界の人口70億人の中でも片手に数えられるほどひどいのだ。
「はあ、そうですか」
レヌは他に返せる返事が思いつかなかったので、振られた課題に相応しい気の抜けた回答をした。
「そうなんだよ!で、何もないと思われたハルヒブになんと時計屋があって…」
「あのう、それって仕事に関係ある話なんですか」
話がますます脱線しそうなのを聞いて、レヌは佐久沼を遮る。
何の芸もないこの男、口だけは達者なのだ。どうでもいい話に付き合っていたら日が暮れてしまう。先日など、最後の将軍徳川慶喜がいかに誤解されている素晴らしい歴史人物かという話を、たっぷり3時間42分46秒も聞かされた。
「関係ないけど、重要じゃん」と誰も興味のない話を無理やり続けようとする佐久沼だったが、その時、宙に浮いてた視線が時計を捉えて、「しまった、もう2時じゃん」と急に慌てだした。
何事かと思ったら、平日の昼間のど真ん中に仕事をサボって将棋教室に行くらしい。
身の回りを整え急ぎ足でオフィスを出ていった佐久沼を、さすがのレヌも呆気にとられながら見送った。将棋は佐久沼の趣味らしいが、きっと幼稚園児にも負けるヘボ将棋なのに違いない。
いずれにせよ、佐久沼が去ったことでやっと仕事が手につく、と一安心するレヌであった。